クラシック音楽のような美しいジャズピアノ ビル・エヴァンスの生涯

ビル・エヴァンス(Bill Evans 1929年~1980年)の奏でるピアノは、まるでクラッシック音楽のような美しさ。

ビル・エヴァンスが奏でるピアノから流れ出る音楽は、まるで清流が流れるがごとく。

透き通った水が流れていくような、美しいジャズです。

押しつけがましさのない、さらっとした美しさ。

聴いていると、心のコリがほぐれ、気持ちがゆっくりとやわらいでいくようです。

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ビル・エヴァンズといえば、まずはこの超有名曲、軽やかなジャズワルツ「ワルツ・フォー・デビー(Waltz for Debby)」

デビー(Debby)はビル・エヴァンスの姪

ちょこちょこと歩きまわる、かわいい子供の姿が目に浮かびます。

ビル・エヴァンスの生涯

ビル・エヴァンスの生い立ち

ニュージャージー州のプレインフィールド出身。

父親はビル・エヴァンスと兄のハリーに、幼いころからピアノを学ばせました。

10代になると、ビル・エヴァンスも兄のハリージャズに興味を持つようになり、アマチュアバンドで演奏を始めます。

音楽を専攻した大学時代に、この「ヴェリィ・アーリィ(Very Early)」を作曲したそうです。

大学を卒業後、召集を受け、軍隊の兵役につきます。

この軍隊時代に、ビル・エヴァンスを生涯悩ますことになった、麻薬の常習がはじまったとされています。

1954年ごろ、兵役を終えたビル・エヴァンスはニューヨークに進出し、優れたジャズピアニストとして知られるようになりました。

マイルス・デイヴィスのバンドに初めての白人として参加

マイルス・デイヴィス(Miles Davis)に請われてマイルスのバンドにも一時期参加しましたが短期間で退団。

これはアフリカ系であるマイルスのバンドに白人のエヴァンスが加わったことに対するアフリカ系ファンからのバッシング(マイルス自身は「俺は音楽ができるヤツなら肌が緑色のヤツでも雇う」と意に介していませんでした)などに、繊細なエヴァンスが耐えられなかったことが原因だと言われています。

退団はしましたが、マイルス・デイヴィスを一躍大スターにしたアルバム「カインド・オブ・ブルー(Kind of Blue)」には再び参加しています。

ビバップがジャズの主流だった時期に、このアルバム「カインド・オブ・ブルー(Kind of Blue)」は新しいジャズとして、センセーショナルな衝撃をもって迎え入れられました。

全曲マイルス・デイヴィス作曲となっていましたが、昨今では「ブルー・イン・グリーン(Blue in Green)」はマイルスとエヴァンスの共作、あるいはビル・エヴァンスの作ということになっています。(でも個人的には、「ブルー・イン・グリーン(Blue in Green)」はいかにもビル・エヴァンスが作りそうな曲だから、ビル・エヴァンスの作だと思っています)

「ブルー・イン・グリーン(Blue in Green)」はビル・エヴァンス(Bill Evans)もトリオで録音していて、マイルス・デイヴィスのバージョンより、少しテンポを落として演奏しています。

リバーサイド4部作

1959年にエヴァンスはドラマーのポール・モチアン(Paul Motian)、ベーシストのスコット・ラファロ( Scott LaFaro)とピアノトリオを組みます。

このトリオは、それぞれの即興性がすばらしいのと、スコット・ラファロのベースがエヴァンスの弾くメロディラインに呼応するように高音でメロディアスなベースラインを弾くという、それまでになかったスタイルで人気となりました。

このトリオで録音した「ポートレイト・イン・ジャズ(Portrait in Jazz)」「エクスプロレイションズ(Explorations)」「ワルツ・フォー・デビイ(Waltz for Debby)」「サンディ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード(Sunday At The Village Vanguard )」はリバーサイド4部作と呼ばれています。

スコット・ラファロも重度の麻薬中毒者で、常にドラッグを買うお金が足りなくて、

「ギャラを上げろ」

とギャラ交渉していてビル・エヴァンスと口喧嘩や、取っ組み合いのけんかになったことも。

(ちなみにビル・エヴァンス自身も麻薬中毒で、ドラッグにお金を使うのでいつも金欠だったとか)

1961年スコット・ラファロが交通事故で、若干25歳で他界すると、ショックのあまりビル・エヴァンスはピアノに触ることもできなくなり、半年間ジャズシーンから姿を消します。

 

「ワルツ・フォー・デビー(Waltz for Debby)」もこのトリオの演奏ですが、この「マイ・フーリッシュ・ハート(My Foolish Heart)」もそうです。

ポロン、ポロンと水滴が落ちるようなビル・エヴァンスのピアノ。

音と音の間の長い沈黙が心地よいです。

エディ・ゴメス、マーティー・モレルと新トリオ(セカンド・トリオ)結成

当時まだ若干21歳だったベーシスト、エディ・ゴメス(Eddie Gomez)と、ドラムのマーティー・モレル(Marty Morell)と新トリオを結成。

ビル・エヴァンスのピアノの音の隙間に、エディ・ゴメスが挑むようににベースの音を入れ込んでくる果敢なプレイスタイルはスコット・ラファロの穴を埋めるのに十分な逸材でした。

 

エディ・ゴメスはスコット・ラファロを骨太にした感じ。

順調な音楽活動のうらで、私生活では数々の悲劇が

1973年、長年ビル・エヴァンスと内縁関係にあった女性エレインが、ビル・エヴァンスに別れを切り出され、別れた直後に地下鉄の電車に飛び込んで自死。

兄ハリーも拳銃で自死(原因は不明とのこと)。

エレインの死後に結婚したネネットや子供たちとも、1970年代末に別居。

長年の深酒や麻薬の常習の影響で体調も悪化、徐々に演奏をもむしばむようになっていきます。

演奏前にヘロインの注射を右手の神経に打ってしまって、一時的に右手が使えなくなり、左手だけで演奏するということもありました。

長年の不摂生で肝臓も悪くしていたビル・エバンスに、周囲は病院へ行くことをすすめましたが、本人は拒否。

亡くなる3日前まで音楽活動を続けました。

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ビル・エヴァンスには笑顔の写真が残っていません。

いつも生真面目な顔で写真に写っています。

それは麻薬の影響で、歯がぼろぼろだったためと言われています。

ビル・エヴァンス 来日時のエピソード

大阪の難波にあったジャズクラブst.jamesの、エルヴィン・ジョーンズ(Elvin Jonesのレコーディングにも参加したオーナーピアニストの田中武久さんのお話。

晩年、ビル・エヴァンスが来日した時、長年の悪癖の影響で、手がパンパンにむくんでビル・エヴァンスはコンサートでは1曲しか弾けなかったのだとか。

残りは全部、田中さんが弾いたそうです。

田中さんいわく、ビル・エヴァンスも同行した奥様(ネネットさんじゃなくて、別居後に交際しておられた20歳年下の彼女さんかも)も

「いい人だった。優しかった。」

とのことです。

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ちなみに、マイルス・デイヴィスとよく組んでいたアレンジャーのギル・エヴァンス(Gil Evans)と名前がよく似ていますが、ビル・エヴァンスとは別人です。

念のため。

 

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(前編)

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