進駐軍ジャズから本場アメリカへ ジャズの殿堂入りした穐吉敏子さん

1929年生まれの穐吉敏子(秋吉敏子)さん。

戦後まだ日本が復興に必死だった時代に、26歳にしてプロペラのパンナム機で、単身アメリカへ。

そしてそのままずっとジャズの本場アメリカで、ジャズピアニストとして第一線で活躍中です。

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穐吉敏子さんによる数々の「日本人初」

日本人として初めてバークリー音楽院に、奨学生として入学。

2006年には、日本人として初めてジャズマスター賞を受賞。

日本人として初めて、デューク・エリントンらも入っている、ジャズの殿堂(International Jazz Hall of Fame)入りもはたしました。

2013年にダウンビートマガジンの表紙を、ジャズピアニストの上原ひろみさんが飾り話題になりましたが、その33年前の1980年に、ダウンビートマガジンの表紙を初めて飾った日本人は穐吉敏子さんです。

穐吉敏子さんのジャズ人生には、数々の華々しい「日本人初」があります。

こちらがアメリカに渡ったころの穐吉敏子さん。

ベースはなんとポール・チェンバース(Paul Chambers)

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家族の生活のために16歳でプロに

穐吉敏子さんは満州生まれ。戦後、家族と日本に引き揚げできました。

穐吉家は戦争で、財産をすべて失っていました。

そんな中、穐吉敏子さんは進駐軍のダンスホールでピアニスト募集の張り紙を見つけます。

満州でずっとピアノを学んでいた穐吉敏子さんは、それに応募。

16歳でプロ生活をスタートさせます。

そして1949年に上京。

1951年には渡辺貞夫さんらとコージー・カルテットを結成します。

そしてアメリカへ

1953年に来日したオスカー・ピーターソン(Oscar Peterson)に見いだされた穐吉敏子さんは、日本にてアメリカでのデビュー作となる録音をおこないます。

そして1956年、バークリー音楽院( Berklee College of Music)へ奨学生として入学。

この時、旅費もバークリー音楽院持ちだったそうです。

在学中の1956年、1957年にはニューポート・ジャズ・フェスティバル(Newport Jazz Festival)にも出演。

当時の可憐な着物姿の穐吉敏子さんの映像や写真も残されています。

その後、チャールズ・ミンガス(Charles Mingus)のバンドにも参加しました。

娘さんのMonday 満ちるさんもミュージシャン

アルトサックス奏者のチャーリー・マリアーノ(Charlie Mariano)さんと結婚した穐吉敏子さんは、1963年にMonday 満ちるさんを出産します。

Monday満ちるさんは、歌手、そして女優もされています。

2015年にはMonday 満ちるさんと「ジャズ・カンヴァセーションズ(Jazz Conversations)」のアルバムも制作。

ルー・タバキン氏と再婚

その後穐吉敏子さんは、テナーサックスとフルートの奏者であるルー・タバキン(Lew Tabackin)さんと再婚。

ルー・タバキンさんの勧めもあって、1973年ビッグバンドを結成します。

このビッグバンドで穐吉敏子さんは、リンカーンセンターでも演奏しました。

2003年、73歳の穐吉敏子さんは「もっとピアノが上手くなりたい」とピアノの練習に時間をさくために、30年間続いたビッグバンドを解散します。

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穐吉敏子さんを世に知らしめた「孤軍」と「ロング・イエロー・ロード」

穐吉敏子さんは、ピアニストとしてだけでなく、作曲家としても素晴らしい曲を世に送り出しました。

「ロング・イエロー・ロード(Long Yellow Road)」。

これまでの穐好敏子さんが歩いてきた道のりを思わせる曲。

 

「孤軍(Kogun)」という曲は、終戦を知らないままフィリピンのジャングルに潜み続け、終戦後29年目にして発見された、日本兵小野田寛郎少尉のことを題材にした曲。

日本的なメロディーで、鼓や、能のような掛け声も大胆に取り入れたこの曲。

ルー・タバキンさんのフルートもまるで尺八のように聞こえます。

26歳の若さで、ジャズの本場アメリカに単身乗り込み、差別やジャズの衰退などの困難を乗り越え孤軍奮闘してきた穐好敏子さんと、ジャングルの中で1人生き抜いてきた小野田少尉とを重ねあわせたかのような曲です。

その他にも水俣病を題材とした「ミナマタ」という21分にもおよぶ大作もあります。

長年アメリカで暮らすからこそ、自らの日本人としての血を意識し、日本で起こるさまざまなことに無関心でいられなかったのかもしれません。

名門ジャズクラブ「バードランド」でレギュラーを務める

チャーリーパーカーなど数々のレジェンドが出演し、ジャズのスタンダード曲ともなった「ララバイ オブ バードランド(Lullaby of Birdland)」という曲まで作られたニューヨークにある名門ジャズクラブ「バードランド(Birdland)」

(正確にいうと、バードランドは一度閉店しています。

今、営業しているバードランドは、同じ店名で開店して営業しているお店。)

穐吉敏子さんはここで1996年から2003年までレギュラーバンドを務めています。

 

「Lullaby of Birdland」はイントロからスキャットするサラ・ヴォーンと、気の利いたトランペットを吹いているクリフォード・ブラウンのバージョンが有名。

 

私は2002年の夏にニューヨーク旅行をした時、このバードランドにも立ち寄りました。

その時は別のミュージシャンを聴きに行ったのですが、店のスケジュールを見たら、毎週月曜日の出演者が穐吉敏子さん!

旅行の日程が合わず、穐吉敏子さんの演奏を聞くことができなかったのが、今でも残念です。

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その旅行中に、ニューヨークに住んでいるジャズに詳しい人が

「アメリカに来ている日本人のジャズミュージシャンで、1番活躍していて、1番知られているのは穐吉敏子さん」

とおっしゃっていました。