ベティ・カーター(Betty Carter 1929年~2016年)
「ジャズ歌手は1人だけ。ベティ・カーターだけ」
と言われた人。
とにかく即興、インプロヴァイゼーション(improvisation)で歌いまくる人。
時には、MCも即興でメロディに乗せてしまいます。
たぶん常に即興、インプロヴァゼイション(improvisation)で歌うことから、カーメン・マクレエ(Carmen McRae)に、そう言われたのだと思います。
そのカーメン・マクレエ(Carmen McRae)とベティ・カーターの2人で一緒に歌っています。
1コーラス目がベティ・カーター。
2コーラス目を歌うカーメン・マクレエ(Carmen McRae)の歌が、普段と違ってベティ・カーター風なのが聴いていて楽しいです。
ベティ・カーターの生涯
ベティ・カーターの生い立ち
1929年ミシガン州生まれ。
父親はデトロイト教会の音楽監督、母親は主婦。
ベティ・カーターは子供の頃から、家族とはあまり親密とは言えない関係でした。
歌手になってからも、家族と
「どうしてる?」
と電話をし合って、近況を確かめ合うような関係ではなかったそうです。
ベティ・カーターは15歳のとき、デトロイト音楽院でピアノを学びはじめますが、プロとしてやっていけるほどの腕前にはなれなかったとのこと。
16歳のとき、両親には内緒で受けたアマチュア・オーディションで優勝。
ベティ・カーターは歌手になります。
でもこのとき、ベティ・カーターは16歳。
年齢が若すぎてナイトクラブに入店できないので、出生証明書を偽造しました。
私はこの曲が入ったアルバムで、ベティ・カーターを知りました。
ベティ・カーター、ビバップの両巨頭にに見いだされる
若いときから、ベティ・カーターの歌い方は、他に類をみないものでした。
そしてジャズがさかんだったデトロイトをたびたび訪れていたディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)と、共演する機会に恵まれます。
ベティ・カーターのスキャットは、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)の影響を受けているとも言われています。
チャーリー・パーカー(Charlie Parker)と共演する機会も得て、ベティ・カーターは、チャーリー・パーカー(Charlie Parker)とディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)の両方から絶賛されます。
そしてディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)にバンドをクビにされたチャーリー・パーカー(Charlie Parker)が作った、新しいバンドにトミー・ポッター、マックス・ローチ、マイルス・デイヴィスとともに参加します。
マイルス・デイヴィスの代わりに彼の家族の面倒を見たベティ
マイルス・ディヴィス(Miles Davis)の自伝によると、1948年~1950年ごろ、ヨーロッパツアーで恋に落ちたジュリエット・グレコが忘れられず、なおかつ人種差別のないヨーロッパから公然と人種差別が存在するアメリカへ帰国し、精神的に耐えられなくなったことが原因で深刻な薬物中毒に陥ったマイルス・デイヴィスは、最初の奥さんと幼い子供たちをほったらかしにして、その世話をベティ・カーターにさせていたそうです。
「ベティ・カーターは今でも、俺のことはあまり好きではないと思う」
とマイルス・デイヴィスは言っています。
ライオネル・ハンプトンのバンドに参加
1948年ベティ・カーターはライオネル・ハンプトン(Lionel Hampton)のバンドに参加。
ハンプトンの奥さんから「べティ・ビバップ(Betty Bebop)」というニックネームをもらいますが、ライオネル・ハンプトンとは、その音楽性の違いからやがて反目し合うようになります。
スイング楽団のリーダーとしての自分に従ってほしいライオネル・ハンプトンは、彼はベティ・カーターの即興性を、あまり快く思っていませんでした。
でも独立精神旺盛なベティは、ハンプトンの指示に従わなかったそうです。
ベティ・カーターがライオネル・ハンプトンのバンドに在籍した2年半の間に、癇癪持ちのライオネル・ハンプトンはベティ・カーターを7回も解雇したのだとか。
ベティ・カーターが参加している、ライオネル・ハンプトンのバンドの演奏がこちら。聴いていると、確かにベティ・カーターの音楽性とは違う気がします。(1:26あたりからベティ・カーターが歌い出します)
ライオネル・ハンプトンのバンドを退団した後、ベティ・カーターはニューヨークへ進出します。
ベティ・カーターの名唱&名曲
26歳のときのベティ・カーター。ピアノはレイ・ブライアント(Ray Bryant)。
マイルス・デイヴィス(Miles Davis)は昔の罪滅ぼしか、レイ・チャールズ(Ray Charles)にベティ・カーターを推薦しました。
レイ・チャールズと録音したこの曲は、R&B部門のヒットチャートにランクイン。
この「ベイビー、イッツ・コールド・アウトサイド(It’s Cold Outside)」は、
「帰らなくっちゃ。家族が心配してるし。。。。」
と変えらなきゃいけない理由をあげる女性に
「外は寒いよ」
と男性が引きとめる歌。
この「ベイビー、イッツ・コールド・アウトサイド(It’s Cold Outside)」を、レディ・ガガ(Lady Ga Ga)が、男女のパートを入れ替えて、帰ろうとする男性を女性が引きとめる歌にしてデュエットしていて、楽しかったです。
私はベティ・カーターは、音の伸ばし方と音の切り方に特徴があると思うのですが、この「オープン・ザ・ドア(Open the Door)」は彼女そういう面を最大限に楽しめるもののように思います。
お気に入りのものを数え上げながら、必死で泣くのを我慢してるって感じ。
それからベティ・カーターが歌う「ホワッツ・ニュー(What’s New)」は、何気なく「久しぶりね」と言っているけど、孤独感もただよう感じがたまりません。
若手の育成にも熱心だったベティ・カーター
自分自身が、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie) やチャーリー・パーカー(Charlie Parker)に起用してもらって歌手として大成したからでしょうか。
ベティ・カーター自身も、大御所となってから若手を積極的に起用し、育成することでも有名でした。
ベティ・カーターは1988年に、このアルバムでグラミー賞を受賞。
1994年にはホワイトハウスで、歌いました。
1997年には、ビル・クリントン大統領より全米芸術勲章を授与。
1998年膵癌で亡くなりました。
2001年にニューヨークに行った時、ジャズクラブで演奏を聴いていたら同席した人が、
「彼はベティ・カーターのバンド出身よ。
ベティ・カーターのバンドにいたってことは、ちゃんとベティ・カーターから音楽教育を受けたってことだし、ベティ・カーターに選ばれた人ってことで、一目置かれるの」
と説明してくれました。
ベティ・カーターのバンドに参加した若手は、たいていその後活躍するそうです。