アルトサックスのチャーリー・パーカー(Charlie Parker 1920年~1955年)は、ビバップと呼ばれる、コードを展開し細かい音を連ねるようなジャズをはじめた人。
オーケストラで譜面どおりに演奏されていたジャズに、即興性を持ち込んだのもチャーリー・パーカーです。
それまでのジャズのスタイルを大きく変えた功労者でしたが、早い段階から麻薬を常用していました。
そんなチャーリー・パーカーの生涯(後編)です。
チャーリー・パーカーの生涯(前編)はこちらです。

チャーリー・パーカーの生涯(後編)
アルコールと麻薬におぼれた破滅的な人生
チャーリー・パーカーが麻薬を始めたのはまだ10代のころだったと言われています。
それから34歳で亡くなるまで、麻薬を断つことはありませんでした。
そのすばらしい演奏と熱狂的な人気とは裏腹に、麻薬に支配されたチャーリー・パーカーの人生ははちゃめちゃなものでした。
薬代欲しさに自分の楽器を質屋に入れる。
友人の楽器を借りて仕事をしますが、その友人の楽器も質屋に入れてしまうことも。
仕事が終われば、深酒と麻薬の日々。
チャーリー・パーカーの生活は荒れ果て、仕事も遅れてきたり、すっぽかしたり。
ジャズクラブになかなか現れないチャーリー・パーカーを、ファンたちがやきもきしながら待っていると、前の晩からずっと着ていたような、よれよれのスーツ姿でフラッと現れて、とろんと眠そうな顔で椅子に座って演奏。
時には、他の演奏者のソロ中にステージの上で眠ってしまうこともあったそうです。
これはディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)と一緒に演奏していたころのライブ盤。
(ちなみにディジーのペットは、まだトレードマークの上向きに曲がったトランペットじゃありません!)
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自分が育てたマイルス・デイヴィスからも見放されたバード
若き日のマイルス・デイヴィス(Miles Davis)がニューヨークに出てきたのは、地元に演奏旅行で来たチャーリー・パーカーを聴いて熱烈なファンとなり、もう1度会うためでした。
チャーリー・パーカーは仕事をたびたびすっぽかす人だったので、マイルスはあちこちのジャズクラブを探し回ります。
そして、やっとのことでチャーリー・パーカー出会えた時には、チャーリー・パーカーも「マイルス・デイヴィスが自分を探しまわっている。」ということを聞き及んでいました。
麻薬がらみの奇行、遅刻、仕事のすっぽかしなど、その仕事ぶりから、それまで組んでいたディジー・ガレスビー(Dizzy Gillespie)のバンドをクビになったチャーリー・パーカーはマイルス・デイヴィスとバンドを組みます。
若き日のマイルスはディジー・ガレスビー(Dizzy Gillespie)のようには吹けない(マイルスはその口の形のせいで高音を出すのが当時は苦手で、また早いフレーズもうまく吹けなかった)ことを気にしますが、チャーリー・パーカーは
「お前は遅いテンポに何かある」
と、マイルスに遅いテンポやフレーズを追及するように促します。
またドラッグを買うために家賃も払えず、住むところがなくなったチャーリー・パーカーはしばらくマイルス・ディヴィスの部屋に居候します。
マイルスの部屋に居候中も、マイルスにジャズについて教えるいっぽうで、麻薬を買うために常に金欠だったチャーリー・パーカーは、マイルスの留守中に勝手にマイルスのスーツケースを売り飛ばしたり、洋服をすべて質屋に入れてしまって着るものがなくなったので大柄な自分のからだに無理やり小柄なマイルスのスーツを着て仕事に行ったりして、マイルスを辟易させます。
挙句の果てには、マイルス・ディヴィスと一緒にLAへ演奏旅行に行ったときに、帰りの飛行機代を麻薬に使ってしまったため、チャーリー・パーカーは、とうとうマイルス・デイヴィスに愛想をつかされ、滞在先に置いてけぼりにされ、マイルス・ディヴィスともお別れとなりました。
「ドナ・リー(Donna Lee)」の作曲者はチャーリー・パーカーとクレジットされていますが、
「初めてレコーディングされた俺の曲だが、誰の責任かわからないけど、作曲者はチャーリー・パーカーということになっていた。」
とはマイルス・デイヴィス(Miles Davis)の弁。
(でも後にマイルス自身もビル・エヴァンスの曲を自分が作曲したとクレジットしたのではないか、と言われています)
ちなみに「ドナ・リー(Donna Lee)」はベーシストのジャコ・パスこと、ジャコ・パストリアス (Jaco Pastorius)のバージョンも有名。
チャーリー・パーカーの晩年
チャーリー・パーカーは徐々に、その演奏にも麻薬の影響が出始め、一時のような華々しい演奏もできなくなります。
だんだん人気も低迷。
やがて仕事も激減したチャーリー・パーカーはお金もなくなり、住むところもなくなります。
そんなチャーリー・パーカーを、ジャズメンたちのパトロン的存在だった、ニカ(Nica)ことパノニカ・ド・ケーニグスウォーター(Pannonica de Koenigswater)が引き取ります。
そしてチャーリー・パーカーは、ホテル暮らしのニカのスイートルームでテレビを見ながら亡くなります。
チャーリー・パーカー、34歳のときでした。
彼を検死した医者は、チャーリー・パーカーのことを60代の老人だと言ったそうです。
麻薬にむしばまれたチャーリー・パーカーのからだはは、まだ30代だったにも関わらず老人のようだったといいます。
チャーリー・パーカーの死で麻薬を断とうとするジャズメンが急増
マイルス・ディヴィスの自叙伝にあったのですが、当時は今のように情報網が発達していなかった時代なので、麻薬については
「麻薬を打てばチャーリー・パーカーのように演奏できる」
と麻薬中毒のチャーリー・パーカーを真似て麻薬をはじめるジャズメンもいたそうです。
また当時は一晩に5ステージほどこなさないといけなかったので、
「麻薬をやれば疲れ知らずで演奏できる」
と一種の強壮剤のような認識で使用していた人もいたのだとか。
それがチャーリー・パーカーの死によって、
「麻薬を続けていると死ぬんだ」
ということが広まって、いろんなジャズメンが麻薬を断ったり、断てなかったりしたのだそうです。
チャーリー・パーカーについては、その生涯を、俳優で映画監督でもあるクリント・イーストウッドが「バード(Bird)」という映画にしています。
たった34歳の生涯で、ジャズの表舞台で活動した期間もごく短いにも関わらず、ジャズの流れを変え、現代においてもジャズに影響を与え続けているチャーリー・パーカー。
彼の登場がなかったら、今のようなジャズは聴けていないはず。
彼に感謝してもしつくせません。
チャーリー・パーカーの生涯(前編)はこちらです。

クリント・イーストウッドが監督した映画「バード(Bird)」についてはこちらに書きました。
