ジャズシンガーのエラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald 1917年~ 1996年)。
彼女の持ち味は、完璧主義と言われたその気質に裏打ちされたような、確かな歌唱力と強力なスイング。
アフリカ系アメリカ人として、初めてグラミー賞を受賞したのちは合計13回(14回とも言われる)もグラミー賞を受賞。
その上、大統領自由勲章まで授与されています。
「ザ・ファーストレディ・オブ・ジャズ(The First Lady of Jazz)」と称され、多くの人に愛されました。
エラ・フィッツジェラルドはサラ・ヴォーン(Sarah Vaughan)、カーメン・マクレエ(Carmen McRae)と並んでジャズの三大女性ボーカルの1人とされています。
(エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン(Sarah Vaughan)、ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)を三大女性ボーカルとする説もあります)
「ハウ・ハイ・ザ・ムーン(How high the moon)」のスキャットは、すごすぎます!
エラ・フィッツジェラルドの生涯(前編)
エラ・フィッツジェラルドの生い立ち
ヴァージニア州ニューポート・ニューズ出身。
エラの母親は、幼いエラをつれて他の男性と暮らすためにニューヨークへ。
そしてエラは継父から虐待を受けていたと言われています。
もともとは成績優秀なエラでしたが、やがて学校をさぼり町をうろつくように。
マフィアや売春宿の使いっぱしりのようなことをして、警察のお世話になったり、ホームレスのような暮らしをしたこともありました。
エラが14歳(15歳とも言われる)のときに母親が死亡。
エラ・フィッツジェラルドははじめはダンサー志望だった?
17歳のとき、ハーレムにあるアポロシアターのアマチュア・ナイツに出場。
当初はダンサーとして参加するつもりでしたが、他のダンサーのダンスを見て断念。
急遽、子供のころから好きだったボズウェル・シスターズの(The Boswell Sisters)のコニー・ボズウェル(Connee Boswell)をまねて歌を歌い、見事、優勝しましす。
コニー・ボズエルは、こんな人。
力強く、音をフラットに延ばす感じがエラに似ているかも。
当時ホームレス状態だったエラ・フィッツジェラルドは、このコンテストに拾った男物の靴を履いて出場したと言われています。
エラ・フィッツジェラルドは、ホームレス生活から抜け出すために必死だったんじゃないでしょうか。
歌への取り組みの気合の入り方が、他のシンガーとは違ったのかも。
チック・ウェブズ・バンドの看板シンガーへ
1935年、このアポロ劇場での優勝がきっかけでエラ・フィッツジェラルドは、チック・ウェブ( Chick Webb)のバンドで、歌手活動をスタートします。
当時まだ17歳だったエラ。
大人っぽいジャズの歌を歌うには幼いということで、エラのために「ア・ティスケット・ア・タスケット(A tisket,A tasket)」という曲が用意され、これが大ヒットします。
「手紙を入れたバスケットを落としちゃった。探すのを手伝って。緑でも赤でも青でもない。黄色のバスケットよ」という歌。
1939年にバンドリーダーのチック・ウェブが亡くなると、バンドは「エラ・フィッツジェラルド・アンド・フェイマス・オーケストラ(Ella Fitzgerald and Her Famous Orchestra)」と名称を変え、エラ・フィッツジェラルドはバンド・リーダーとしての役割も担うようになりました。
バンドを退団しソロ活動へ
エラ・フィッツジェラルドはバンドを退団し、1941年(1942年とする説も)からソロ活動をはじめました。
時代は、ビッグバンドの華やかなジャズからビバップの時代へと移り変わったころ。
エラ・フィッツジェラルドも、このビバップや ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)に影響され、そのボーカルスタイルが変わり、スキャットするようになったのも、このころだと言われています。
1945年にリリースされた「フライング・ホーム」でのエラのスキャットについて、ニューヨーク・ライムズ紙は「ここ10年間の録音の中で、最も影響力のあるヴォーカルジャズの記録の1つ」と称賛しました。
(後編)に続きます。
ソロになってからも、人種差別など、いろいろ大変だったようです。
エラ・フィッツジェラルドの名曲も紹介しています。
(前編)
(後編)
エラ・フィッツジェラルドのジャズ名盤アルバムについてはこちら。
(前編)
(後編)