私とニーナ・シモン(Nina Simone 1933年~2003年)の出会いは、1997年公開の映画「ワン・ナイト・スタンド(One Night Stand)」
既婚者同士が偶然出会って一晩をともに過ごしたことから始まるお話で、最後の最後まで結末が読めなくて、映画が終わる寸前にすっきりした結末を迎える後味のよい映画でした。
その映画「ワン・ナイト・スタンド(One Night Stand)」の中で流れていたのが、ニーナ・シモンの「イグザクトリー・ライク・ユー(Exactly Like You)」
ニーナ・シモンのピアノのイントロがとても印象的で、そこからニーナ・シモンの歌がはじまると、映像そっちのけで聴き入ってしまいました。
最初に聞いたときは、ジャズのようだけど、今まで聞いたジャズとは違う感じに
「これ誰?誰が歌ってるの?」
と興味津々。
映画のエンドロールでニーナ・シモンの名前をチェックして、すぐに音源を探しに行ったのを覚えています。
ニーナ・シモンの生涯
ニーナ・シモンの生い立ち
ノースカロライナ州、トライロン出身。
ニーナ・シモンは7人兄弟の6番目(8人兄弟の6番目という説もあり)として生まれました。
4歳からはじめたピアノは、やがてその才能を認められるように。
彼女の家は貧しく、クラシック音楽の勉強は難しい経済状態でしたが、何人かの支援者も現れ、周囲のバックアップもあって、名門ジュリアード音楽院でレッスンを受けるようになります。
ニーナ・シモンはこうしてコンサートピアニストを目指して、クラシック音楽の勉強をするようになりました。
アフリカ系を受け入れないクラシック音楽界に拒絶される
ニーナ・シモンはカーティス音楽大学への進学も試みました。
成績は問題なかったのに、1950年代の人種差別が激しかった時代の影響か、入学は許可されませんでした。
若い時にニーナ・シモンの自伝を読んだのですが、ニーナ・シモンはクラシックピアノの才能を認められていましたが、アフリカ系だったためにクラシック音楽家としては活動できなかったそうです。
ジュリアード音楽院で学んだマイルス・デイヴィスの自伝にもありましたが、当時はクラシック音楽を学んでも、アフリカ系はオーケストラに入れない状態だったとか。
今でもクラシックのオーケストラに、アフリカ系はあまり見ないように思います。
ウィントン・マルサリスもクラシックを学んでいたけれど、アフリカ系ゆえにクラッシック業界に入れてもらえなくて、仕方なく20歳くらいのときにジャズを聴きまくって勉強してジャズトランぺッターへと方向転換したと、何かで読んだように思います。
(マルサリスはお父さんもお兄さんもジャズメンというジャズ一家なので、この話の信ぴょう性は低いかもしれませんが。)
ニーナ・シモンはクラシックはあきらめ、生活のためにピアノの講師や、カクテルピアニスト(ジャズクラブやラウンジで弾くピアノ)のような仕事をするようになります。
家族や支援者に隠れてナイトクラブで仕事をするために「ニーナ・シモン」へ
ニーナ・シモンの本名はユニース・キャスリン・ウェイモン(Eunice Kathleen Waymon)。
クラシックの世界に入れないニーナ・シモンは生活のためにナイトクラブでカクテルピアニストとして働きジャズを演奏することになりましたが、当時、ジャズは悪魔の音楽と呼ばれ堕落した音楽と思われていました。
ニーナ・シモンの母親は信心深い人だったので、娘がそんな音楽を演奏することに猛反対することは目に見えてましたし、生活のためにカクテルピアニストになったことを家族や支援者たちに隠す必要がありました。
それで本名を隠すため、ボーイフレンドがつけたニックネーム「ニーナ」と、自身が尊敬していたフランスの女優シモーヌ・シニョレ(Simone Signoret)から「シモン(Simone)」を合わせて、ニーナ・シモンの名で仕事をするようになります。
ナイトクラブのオーナに歌も歌うように言われ、弾き語りのスタイルで歌うようになりました。
そしてこの「アイ・ラヴズ・ユー・ポギー(I Loves You Porgy)」でデビュー。
「アイ・ラヴズ・ユー・ポギー(I Loves You Porgy)」というこの曲目。
なぜ一人称の「I」が主語なのに、動詞に三単現のsがついて「Loves」になるのか?
私は最初、誤植だと思ってました。
最近では、「アイ・ラヴ・ユー・ポギー(I Love You Porgy)」と、sをつけないで表記されることが多いし。
でも、これは「アイ・ラヴズ・ユー・ポギー(I Loves You Porgy)」で正解。
当時のアフリカ系アメリカ人特有の言い方で、一人称単数でもsをつけることがあるそうです。
この曲は「ポーギー・アンド・ベス(Porgy and Bess)」という、貧しいアフリカ系アメリカ人を描いた、ガーシュインによるオペラで歌われた曲。
だから、当時のアフリカ系アメリカ人の言い回しで表記されています。
話はニーナ・シモンにもどります。
デビューしたものの、ニーナ・シモンはクラシック音楽の勉強のための費用をかせぐためにポップスを演奏し、レコーディング契約には終始無関心だったと言われています。
ビートルズ、ビージーズなどのポップスのほかに、こんなディスコミュージックまでやってます。オリジナルより少しアップテンポにしたニーナ風が心憎いです。
「ウーウ、チャイルド(O-O-H Child)」のオリジナルはこちらです。
公民権活動家、市民運動家としての一面
彼女が12歳でクラシックピアノのコンサートデビューをしたとき。
ニーナ・シモンの両親が娘の演奏を見るために最前列に席を取っていましたが、その席を白人にゆずらされました。
ニーナ・シモンはこれに猛抗議。
両親が最前列の席に戻るまで、演奏を拒否したそうです。
デビューした後も公民権運動を支持。
人種差別主義に抗議した「ミシシイピ・ゴッダム(Mississippi Goddam)」「自由になりたい(I wish I knew How It Would Feel To Be Free)」などの曲をリリースしました。
アラバマ州のアフリカ系が通う教会を白人の人種差別主義者が爆破し、アフリカ系の少女4人が亡くなった事件と、アフリカ系解放運動家メドガー・エヴァーズがテネシーで射殺された事件へのプロテスト・ソング「ミシシイピ・ゴッダム(Mississippi Goddam)」
「アラバマは私を激怒させた、テネシーは私の安らぎを奪った」と歌っています。
「自由になりたい(I wish I knew How It Would Feel To Be Free)」はジャズピアニストのビリー・テイラー(Billy Taylor)の曲。
「自由であるってどんな気持ちなんだろう」という内容。
アフリカ系の人権を取り戻す公民権運動などが盛り上がっていた時代とはいえ、アフリカ系で、しかも女性が公然と公民権運動を支持するということはまだ珍しかった時代。
ニーナ・シモンの歯に衣を着せぬ物言いと、公然と公民権運動を支持する内容の曲を作ったことで、白人も客層にしているレコード会社に敬遠され、音楽活動に影響したと言われています。
アメリカの音楽業界から締め出されたニーナ・シモン
ニーナ・シモンが「ミシシイピ・ゴッダム(Mississippi Goddam)」を作曲し発表した時代は、まだ人種差別が公然と存在していた時代。
そんな時代に、公民権運動を公然と支持する内容の曲は、音楽業界に受け入れられないどころか、ニーナ・シモンを排除するような雰囲気にもなりました。
そのうえ当時の夫から虐待も受けていたニーナ・シモンは、1970年ごろにカリブ海にあるバルバトスへと飛びます。
いったんはアメリカに戻りますが、ベトナム戦争に抗議する意味で税金を未納にしていて、その件で令状が出たため、再びバルバトスへ渡ります。
1974年~1993年の間はフランスでレコーディングしたり、ロンドンで演奏したりヨーロッパで活動。
住まいもヨーロッパ、南米などに移り住み、晩年はフランスに落ち着き、そこで亡くなりました。
Netflixはニーナのドキュメンタリー映像「ニーナ・シモン~魂の歌」を制作。
ジャンルを超え、時代を超えて、今でも多くの人たちを魅了するシンガーです。
ニーナ・シモンの数々の名曲のご紹介はこちら。