大の親日家のジャズドラマー アート・ブレイキーの生涯(前編)

アート・ブレイキー(Art Blakey、1919年~1990年)は大の親日家として知られていますが、そのせいか日本にはファンも多いように思います。

若い才能の発掘にも秀でていて、ジャズ・メッセンジャーズで才能ある新人を起用し、世に送り出してきた功労者でもあります。

華麗なドラミングを聴かせるアート・ブレイキーですが、ジャズの世界で最初はピアニストとしてプロ活動をスタートしました。

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ジャズ・メッセンジャーズにも在籍していたピアニスト、ボビー・ティモンズ(Bobby Timmons)が作曲した「モーニン(Moanin’)」は、ジャズ・メッセンジャーズの代表曲の1つ。

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アート・ブレイキーの生涯(前編)

アート・ブレイキーの生い立ち

ペンシルベニア州ピッツバーグ出身。

実母はアート・ブレイキーを生んですぐに亡くなり、養母に育てられました。

学校でピアノの技術を学んだアート・ブレイキーは、7年生(中学1年生相当)のときには、ピアノを演奏してお金を稼いでいました。

(ただ一説には、アート・ブレイキーのピアノはほぼ独学だったという話もあります)

やがてバンド・リーダーの役割も担うようになり、10代後半にはニューヨークへと進出します。

1930年初頭、ピアノからドラムへ転向する

アート・ブレイキーがピアニストからドラマーに転向した理由として有名な話が、クラブのオーナーに言われて、というもの。

このエピソードの詳しい話は、こちらに書きました。

ピアノからドラムに転向 苦労人アート・ブレイキーのエピソード
「ザ・ジャズ・メッセンジャー」を率いていたことでも有名なドラマー、アート・ブレイキー。大の親日家で、一時は日本の野外フェスに毎年のように参加していました。そんな彼のエピソードの数々。

ただ、この話が真実かどうかは、わかりません。

ミュージシャンは、おもしろおかしく話を盛ることもあるようなので、もしかしたら、このお話もミュージシャンの間で尾ひれはひれがついて、まことしやかに語られるようになった話かもしれません。

アート・ブレイキー、ビバップの洗礼を受ける

アート・ブレイキーは、1939年から1944年まで、フレッチャー・ヘンダーソン(Fletcher Henderson)のオーケストラに所属。

1944年から1947年までビリー・エクスタイン(Billy Eckstine)のバンドに所属。

当時のビリー・エクスタインのオーケストラには、マイルス・デイヴィス(Miles Davis)、デクスター・ゴードン(Dexter Gordon ) 、ファッツ・ナバロ(Fats Navarro)、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)チャーリー・パーカー(Charlie Parker)サラ・ヴォーン(Sarah Vaughan)とそうそうたるメンバーが在籍していました。

彼らとともに、アート・ブレイキーもビバップに深くかかわるようになります。

1947年にビリー・エクスタインのバンドが解散すると、アート・ブレイキーはアフリカを旅行して、アフリカンリズムを学びます。

のちにアフリカのパーカッションを集めた、アフリカンリズムでの録音もおこなっています。

イスラム教に改宗

ブレイキーはアフリカでイスラム教に改宗し、戒名のアブドゥラ・イブン・ブハイナ( Ibn Buhaina)を名乗るようになります。

当時、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)をはじめ、多くのジャズメンがイスラム教に改宗しました。

もちろんイスラム教の教義に共感したというのもあるかもしれませんが、アルコールや薬物におぼれるジャズメンが多い中、禁欲的な教えが魅力的だったというのもあるようです。

また、人種差別が公然と存在している時代だったので、イスラム教に改宗すると、アフリカ系だということをカモフラージュできるという利点もありました。

イスラム教に改宗すると、名前をイスラム圏の名前に改名するため、アフリカ系アメリカ人だと断られるホテルにもチェックインできたようです。

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セロニアス・モンクらと共演

1940年代後半からマイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク(Thelonious Monk)チャーリー・パーカー(Charlie Parker)ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)らと共演。

とくに、セロニアス・モンク(Thelonious Monk)とは相性がいいようで、セロニアス・モンク(Thelonious Monk)の1947年の最初のレコーディングと、1971年のロンドンでの最後のセッションでも一緒に演奏しました。

セロニアス・モンク(Thelonious Monk)とは最初と最後の間にも、多数の録音を残しています。

(後編)に続きます。

大の親日家のジャズドラマー アート・ブレイキーの生涯(後編)
アート・ブレイキー(Art Blakey、1919年~1990年)の生涯の後編。ジャズ・メッセンジャーズを結成してから晩年まで。ビバップのドラムスタイルを確立し<iframe src="https://open.spotify.com/embed/track/6DH9qxj2GJi0lU2Y5FDHky" width="300" height="380" frameborder="0" allowtransparency="true" allow="encrypted-media"></iframe>、アフリカンリズムをジャズのドラムに取り入れた先駆者でもありました。

後編ではアート・ブレイキーは、いよいよあのジャズ・メッセンジャーズ(The Jazz Messengers)を結成します。

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アート・ブレイキーのさまざまなエピソードについては、こちらに書きました。

ピアノからドラムに転向 苦労人アート・ブレイキーのエピソード
「ザ・ジャズ・メッセンジャー」を率いていたことでも有名なドラマー、アート・ブレイキー。大の親日家で、一時は日本の野外フェスに毎年のように参加していました。そんな彼のエピソードの数々。

アート・ブレイキーやジャズ・メッセンジャーズの名曲のご紹介はこちら。

ttps://jazz.fifkoblog.com/art-blakey4/

アート・ブレイキー(ジャズ・メッセンジャーズ)の名盤のご紹介はこちら。

(前編)

アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの名盤(前編)
アート・ブレイキー(Art Blakey、1919~1990年)&ジャズ・メッセンジャーズの名盤や、おすすめのアルバムのご紹介です。

(後編)

アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの名盤(後編)
アート・ブレイキー(Art Blakey、1919~1990年)とジャズ・メッセンジャーズ( Jazz Messengers)の名盤&おすすめアルバムのご紹介、後編です。

アート・ブレイキーがサイドマンで参加したアルバムのご紹介はこちら。

アート・ブレイキーがサイドマンで参加したアルバム
アート・ブレイキー(Art Blakey、1919年~1990年)が、他人名義のアルバムにサイドマンとして参加したもので、有名どころをご紹介します。

アート・ブレイキーの練習方法とドラムのスタイル。

ナイアガラロールが誕生したアート・ブレイキーの練習方法とスタイル
アート・ブレイキー(Art Blakey、1919年~1990年)のドラムのスタイルについて。ブレイキーの代名詞「ナイヤガラロール」誕生のきっかけとなったかもしれない、若き日のアート・ブレイキーが先輩から伝授された練習方法についてもご紹介します。

ジャズ・メッセンジャーズ(Jazz Messengers)出身のミュージシャン

ジャズ・メッセンジャーズ出身のミュージシャンとその演奏
アート・ブレイキーが長きにわたって率いたジャズ・メッセンジャーズ(Jazz Messengers)出身のミュージシャンのご紹介。