ジャズシンガー&日本人唯一のオスカー女優 ナンシー・梅木

ジャズシンガーで、アメリカでも活躍したナンシー梅木さん(Miyoshi Umeki 1929年~ 2007年)は、日系アメリカ人ではありません。

日本で生まれ育ちました。

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ナンシー梅木さんさんは、1950年代に日本でジャズシンガーとして人気を博していたにも関わらず、ジャズの本場アメリカに渡り、ジャズ歌手としてだけでなく女優として、あのマーロン・ブランドとも共演。

日本人唯一となるオスカー女優となりました。

その後アメリカのテレビ界で司会業を務めたりもしますが、突如姿を消します。

ナンシー梅木さんと言えば、この曲。

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ナンシー梅木のショウガい

戦後、進駐軍相手にジャズを歌ったナンシー梅木

ナンシー梅木さん(1929年~2007年)、北海道小樽市出身。

本名は梅木美代志(ウメキ ミヨシ)

兄が終戦後に進駐軍の通訳をしていた関係で、米軍キャンプ(日本には終戦後、各地に占領軍のアメリカ兵が押し寄せ、彼らの過ごす米軍キャンプが作られました)でジャズを歌うようになります。

戦後の日本は、貧困でした。

戦争ですべてが破壊され、お金持ちですらも一文無しに。

会社や商店なども戦争で焼失したため、勤め人だった人たちが、職を求めて町中にあふれかえっていた時代です。

子供も大人も、食べ物を手に入れるために、必死になって仕事を探していました。

そんな中、進駐軍たちの気晴らしとしてジャズは歓迎されていたため、お金を稼ぐために、楽器が弾ける者は、こぞって見様見真似でジャズを演奏しました。

そして子供や少女が歌えばヘタな英語でも喜ばれるため、にわかジャズボーカルにしたてられました。

昭和の歌謡界で活躍した、伊藤ゆかりさん、江利チエミさんなどもその一人です。

少女たちが仕事がない父に代わり、歌って一家をささえたという話が珍しくなかった時代です。

そんな中、兄のつてでジャズを歌うようになった、ナンシー梅木さん。

最初はお兄さんの方が歌っていたそうですが、妹のほうが歌がうまいということで、ナンシー梅木さんが歌うようになったそうです。

そのまま1950年代も、ジャズ歌手として日本で活躍。

1951年~1953年まで「スイングジャーナル誌」の人気投票で一位を独占するほどでした。

ナンシー梅木、渡米

1955年、ナンシー梅木さんはジャズを本場で勉強するために、アメリカに渡ります。

ここからはトントン拍子にことが運びます。

1956年にアメリカのテレビ、オーデション番組に着物で出演して、映画の歌を披露します。

これが評判となり、レコードが発売されます。

そしてナンシー梅木、ハリウッドデュー

1957年には、ハリウッド映画「サヨナラ」に出演。

主演はなんと、マーロン・ブランド!

そしてこの映画での演技で、アカデミー賞の助演女優賞を受賞します。

アメリカ人とイギリス人以外が、この賞を受賞したのは、当時ではナンシー梅木さんが初めてでした。

その後はブロードウェイにも進出。

かのトニー賞にノミネートもされました。

また、映画にも何本か出演されたとのこと。

 

ナンシー梅木さんが出演したハリウッド映画「サヨナラ」については、こちらに書いています。

ジャズシンガーのナンシー梅木出演ハリウッド映画「サヨナラ」
ジャズ歌手ナンシー梅木さん(1929年~2007年)が、マーロン・ブランドと共演した映画「サヨナラ」について書きました。彼女はこの映画でアカデミー賞も受賞しています。
ナンシー梅木の晩年

アメリカでテレビデレクターと結婚しますが離婚。

その後、ドキュメンタリー映画監督と再婚します。

出演していたテレビドラマが終了した1972年、ナンシー梅木さん42歳の時、芸能活動からの引退を決意します。

それは、日本での共演仲間であるペギー葉山さんも含め、日米の仕事関係の友人との関係も絶ち、オスカー像なども含め仕事関係の品物も処分しての固い決意でした。

公の場からは完全に消息を絶ちます。

そして翌年の1973年ナンシー梅木さんの夫が、ガンで亡くなります。

その後ハワイに住んだりもしましたが、アメリカのミズーリ州で2007年にガンでなくなりました。

78歳でした。

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2015年ナンシー梅木さんのTV特集で息子さんの証言が

2015年wowownで「ノンフィクションW~失われたオスカー像~日本初アカデミー賞女優ナンシー梅木の生き方~」という番組が放映されました。

その時の、ナンシー梅木さんの息子さんの証言によると、オスカー像は、ナンシー梅木の手によって、壊されていたのだそうです。

その壊すところを見ていた息子さんがおっしゃるのには、像を壊すことで、夫との思い出を自分のものにしたかったのだろう、ということです。

引退後はマスコミの取材にも一切応じなかったにもかかわらず、ナンシー梅木さんが亡くなったとの訃報は、ワシントン誌で報じられました。

 

youtubeなどで、アカデミー賞受賞時に、着物姿で

「思ってもみなかったわ。

どなたか(途方にくれている今の)私を助けてくださらない?」

とスピーチしている彼女の姿を見ることができます。

穐好敏子さんといい、ナンシー梅木さんといい、戦争を生き抜いて、まだアメリカへ行くことが大変だった時代にアメリカに渡り、ジャズの本場で仕事をしたというのは、並大抵のことではなかっただろうなと思います。

お二方の苦労、努力を想像すると、私の苦労や努力なんて小さく思えてきます。

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戦後、進駐軍相手にジャズを演奏する若者たちを描いた映画「この世の外へ~クラブ進駐軍~」についても書いています。

戦後のジャズメンを描いた映画「この世の外へ~クラブ進駐軍~」
2004年公開の映画「この世の外へ~クラブ進駐軍~」。戦後、進駐軍クラブで、ジャズについて知らないまま生きていくために、かつての敵アメリカ兵の前でジャズを演奏する若者たちの葛藤、苦悩を描いたストーリー。見た後、心に何かが残る、いい映画です。