ビリー・ホリデイ(Billie Holiday 1915年~1959年)の名前を聞くと、私は「エイント・ノーバディ・ビジネス(Ain’t Nobody’s Business)」という曲が頭に浮かびます。
「私がそんなことになっても、誰にも関係ないのよ」と歌うこの曲。
彼女のこの曲のビリーの歌唱が好きというのもありますが、彼女の人生が、この曲そのもののように思えてなりません。
ビリー・ホリデイのおすすめアルバムや名盤については、こちらに書きました。
「エイント・ノーバディ・ビジネス(Ain’t Nobody’s Business)」の歌の内容は、人の目を気にせずに自分のやりたいようにやる、という意思表示のようにも思えますが、ビリー・ホリデイが歌うと、私がどんな目に会っても誰にも関係ないの、誰も助けてはくれないの、と歌っているように感じてしまいます。
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ビリー・ホリデイの経歴
ビリー・ホリデイの過酷な10代
フィラデルフィア出身。
ビリー・ホリデイの自伝「奇妙な果実」では、ビリー・ホリデイが生まれたとき、両親はローティーンだったと書かれていますが、実際には、母親は19歳、父親が17歳だったようです。
母親は未婚のままビリー・ホリディを出産。
父親はジャズギタリスト。
この父親は後にツアー先で重病となりましたが、人種差別が当たり前だった時代に、アフリカ系アメリカ人を受け入れる病院がなかなか見つからなくて亡くなったそうです。
母親が働くために、幼いビリーは親戚の家に預けられました。
その家でビリーが幼いときに、祖母の腕にビリーが抱かれたまま祖母が亡くなり、失語症にもなりました。
また夜になると年かさのいとこの少年がビリーに悪さをしようとするので、常に寝不足だったと「奇妙な果実」には書かれていました。
やがてビリーは母親に引き取られますが、ビリーは11歳のクリスマス・イヴに近所の男にレイプされ、これが母親の保護と養育が不十分ということになり、虐待や暴力が蔓延する更生施設に一時送られます。
更生施設を出所したビリーと母親は、ニューヨークに出ます。
そこでビリーを売春宿に預け、母親は売春の仕事をするように。
「奇妙な果実」の中に、ビリーはこの売春宿で流れていたルイ・アームストロングやベッシー・スミスのレコードに夢中になったと書かれていました。
ビリーは母親と一緒に、売春の容疑で警察に捕まったこともあるようです。
やがてビリー・ホリディはナイトクラブに出入りするようになり、ジャズ歌手になります。
この時点で、ビリーはまだ10代!
10代で、この波乱万丈。
のちに歌手として成功したビリー・ホリデイは、母親にレストランの店を持たせてやりました。
激しい人種差別にさらされた歌手活動
また人種差別が激しかった時代に、初めて白人の楽団で歌ったアフリカ系の歌手となりました。
ビリー・ホリデイは、白人のオーケストラの専属歌手となりツアーに出ます。
ところが人種差別を公然とおこなう法律、ジム・クロウ法があるため、ツアー中もビリーは自分が歌ったホテルには泊まれず白人のメンバーたちとは違うホテルに泊まり、メンバーたちと一緒のレストランに入ることもできず1人でツアーバスに残ってサンドイッチを食べるようなこともあったようです。
そして人種差別がはげしいアメリカの南部では、白人のバンドでアフリカ系アメリカ人の歌手が歌うスタイルが受け入れられず、ツアーを途中で断念。
当時のアフリカ系アメリカ人は、何かにつけ理不尽にい言いがかりをつけられて、
「生意気だ」
というだけの理由でKKK(白人至上主義)にリンチされたあげく殺されることも多く、その亡骸は木からぶら下げられました。
木から亡骸がぶら下がっているようすを、果実に例えた詩をもとに作られた「奇妙な果実(Strange Fruit)」。
早い時期から麻薬中毒になったビリー・ホリデイ
ビリー・ホリデイは若い時の写真を見るとどちらかというとふくよかで、若い頃の録音もつややかでのびのびとした声です。
でも早くに麻薬の悪癖がはじまり、ジャンキーとなった彼女。
ビリー・ホリデイが付き合った男性やマネージャーの中には、ビリーを薬漬けにして、薬ほしさに働かせるという悪い男もいたようです。
若き日のマイルス・デイヴィス(Miles Davis)は、ビリー・ホリデイ楽団のトランぺッターで当時のビリー・ホリディの夫(彼もまたジャンキーでした)が仕事に姿を見せないと、そのトラ(ピンチヒッター)に呼ばれていたそうですが、マイルスの自伝によるとビリーがマイルスに言ったそうです。
「みんな、私を聞きにきてるんじゃないの。
ジャンキーでボロボロになっている私の姿を見に来てるのよ。」
刑務所に収監され、ライセンスを取り上げられる
アルコール依存症で、筋金入りの薬物中毒だったビリー・ホリデイ。
薬物所持で、逮捕され刑務所に収監されたこともあります。
当時は、ニューヨークのジャズクラブに出演するにはライセンスが必要だったのですが、ビリーはそのライセンスを取り上げられ、ニューヨークのジャズクラブで歌えなくなります。
そのため薬と深酒の悪癖で弱ったからだに鞭打って、ビリーはツアーに出ます。
ヨーロッパツアーもおこないました。
またジャズクラブで歌えなかったので、カーネギーホールやアプロ劇場などでも公演をおこないました。
こういったツアーや大きな劇場での仕事は、麻薬やアルコールで崩した体調を、ますます悪化させていったと言われています。
44歳という短い生涯
長年の薬物依存と深刻なアルコール中毒で、ビリー・ホリデイは肝硬変になります。
やつれて変わり果てたビリーの姿に、まわりは入院を勧めますがビリーは承知しませんでした。
やがて自宅で倒れて入院することに。
医者にお酒とたばこを止められますが、ビリーは止めませんでした。
そして44歳という短い生涯を閉じました。
ニックネーム「レデイ・デイ」の名付け親レスター・ヤング
ビリー・ホリデイが楽器のような歌い方を学び、一時は恋仲でもあったテナーサックス奏者のレスター・ヤング。
ビりー・ホリデイとレスター・ヤング(Lester Young)は一時期とても仲睦まじく、夜が明けるまでジャズクラブをはしごしたり、ビリー・ホリデイの母親が経営するお店に連れ立って来たそうです。
ビリー・ホリデイに「レデイ・デイ(Lady Day)」というニックネームを付けたのがレスター・ヤングで、レスター・ヤングに「プレス(大統領の意味)(Pres)or(Prez)」というニックネームをつけたのが、ビリー・ホリデイ(ビリーの母親という説もあり)。
ただ残念なことにレスター・ヤングも麻薬中毒だったため、2人は恋人同士としてはうまくいきませんでした。
作家の村上春樹さんも著書「ポートレイト・イン・ジャズ」 で触れておられるビリー・ホリデイの「君微笑めば(When You’re Smiling)」では、そのレスター・ヤングと一緒に息の合った歌を聴かせています。
ビりー・ホリデイはルイ・アームストロングと一緒に「ニューオリンズ」という映画にも出演。
そこでは歌を披露するのはもちろんのこと、メイド役としてセリフもあって演技もしています。
なかなかの名演技を見せています。
ビリー・ホリデイについては、モータウン・レコードのトップスター、ダイアナ・ロス主演で「ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実」という映画も作られました。
ダイアナ・ロスが主演した映画「ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実」も紹介しています。
ビリー・ホリデイの自伝「奇妙な果実」についても書いてます。
ビリー・ホリデイがルイ・アームストロングと出演した映画「ニューオリンズ」についてはこちら。
ビリー・ホリデイのおすすめアルバムや名盤については、こちらに書きました。
ビリー・ホリデイの名曲はこちら。