ジャンゴ・ラインハルト(Django Reinhardt 1910年~1953年)はロマ、いわゆるジプシーとして、1910年ベルギーに生まれました。
(ジプシーは英語表記。
フランスではマヌーシュなどと呼ばれます。
彼ら自身は自分たちのことを「ロマ」と呼びます。)
18歳の時、火事で大やけどを負い、左手の薬指と小指に障害が残りました。
やけどによる左手の薬指と小指の障害は、ギタリストにとって致命的であったにもかかわらず、彼は残りの3本の指で、信じられないような演奏をしました。
ハンディを乗り越え、ギタリストとして人気を得ます。
ジプシー音楽とジャズを融合させた、ジプシージャズ(ロマ・スウィングとも呼ばれます)の創始者となります。
またジャンゴ・ラインハルトは、早くからギターで即興演奏を行っていたことでも知られています。
ヨーロッパ人でありながら、その名声はアメリカにも鳴り響き、アメリカのジャズメンが、彼と共演したがりました。
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ジャンゴ・ラインハルトの生涯(前編)
ロマの一族として生まれたジャンゴ・ラインハルト
現在では政府の政策などもあり、ロマも定住し、職に就くことが多いようですが、ジャンゴ・ラインハルトが生まれた当時は、ロマは一族でキャラバンを組み、馬車などでヨーロッパ中を旅し、放浪していました。
そして行く先々で、音楽やダンスなどを披露して収入を得ていました。
ジャンゴ・ラインハルトの両親も、ロマの一族で、旅芸人でした。
ジャンゴ・ラインハルトのジャンゴは「私は目覚める」という意味の名前です。
彼も子供の時から、キャラバンと一緒に旅をしながら、ギターやバイオリンなどの楽器を演奏しており、10代の前半はパリでバンジョーを弾いていました。
ジャズに興味を持ち始めた矢先に、ギタリスト生命の危機
10代の前半からパリのダンスホールなどで仕事をしていたジャンゴ・ラインハルト。
16歳の頃、彼はビリー・アーノルド(Billy Arnold)の演奏を聴いて、ジャズに夢中になります。
18歳になるころには、ジャンゴ・ラインハルトの音楽活動は軌道に乗り、レコーディングするほどまでになっていました。
しかしその矢先、キャラバンが火事となり、ジャンゴ・ラインハルトはかなりのやけどを負います。
右足はマヒ、そのうえギタリストの命とも言えるギターの弦を押さえる左手の薬指と小指には障害が残ります。
普通ならば、とてもギターが弾ける状態ではありません。
ところが彼は練習によって、これを克服。
薬指と小指をあまり使用することなく、ほとんどを残りの3本の指で早弾きをするという彼特有の奏法を編み出します。
またこの指が3本しか使えないという制約によって、彼のコード進行はかえって個性的なものとなりました。
盟友ステファン・グラッペリとの出会い
31歳の時、ジャンゴ・ラインハルトは、フランス人のヴァイオリン奏者、ステファン・グラッペリ(Stéphane Grappelli)と出会います。
そして34歳の時に、ステファン・グラッペリと弦楽器のみのバンド、フランス・ホット・クラブ五重奏団(The Quintet of the Hot Club of France)を結成。
35歳の時には、フランスに来ていたコールマン・ホーキンス(Coleman Hawkins)とも共演します。
ロマの生活を愛したジャンゴ・ラインハルト
ジャンゴ・ラインハルトは、やがてロマの放浪する生活が懐かしくなるあまりに、ときに仕事をすっぽかすようになりました。
それでもフランス・ホット・クラブ五重奏団(The Quintet of the Hot Club of France)の演奏活動は順調で、イギリスやアメリカにも紹介されるようになります。
後編に続きます。
ジャンゴ・ラインハルトに捧げられた曲については、こちらに書きました。
ジャンゴの映画については、こちらに書きました。