強烈にスイングするジャズシンガー、エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald 1917年~ 1996年) のバイオグラフィーの生涯(後編)です。
まだ10代で無名だったエラ・フィッツジェラルドは、チック・ウェブ( Chick Webb)のオーケストラの看板シンガーとしてそのキャリアをスタートします。
チック・ウェブの死でバンドをウェブに変わってひきいるものの、結局独立してソロシンガーとなりました。
(前編)はこちら。
エラ・フィッツジェラルドの生涯(後編)
スターになるも深刻な人種差別で飛行機の搭乗拒否
1954年、エラ・フィッツジェラルドは初のオーストラリアツアーをおこないます。
このときのツアーのメンバーには、エラをはじめとしてアフリカ系アメリカ人が何人か含まれていました。
すでにスターとなっていたエラとメンバーたちは、ホノルルからオーストラリア行のアメリカン航空機のファーストクラスのチケットを持っていました。
にも関わらず、エラとメンバーたちはすでに飛行機に搭乗した後に、飛行機から降りるように命じられ、飛行機に残った荷物を取りに戻ることすら許されませんでした。
エラとメンバーたちはホノルルで3日間立ち往生し、オーストラリアでのコンサートを2つキャンセル。
なんとか、別の便でオーストラリアへ向かいました。
このときの、オーストラリアでのエラのツアーは大盛況で、興行成績の記録をもぬりかえるほどでした。
のちにエラとメンバーたちはアメリカン航空機を訴え、民事訴訟で勝訴しています。
女優マリリン・モンローはエラの大ファンかつ後援者
実は熱心なジャズファンだったマリリン・モンロー。
よくジャズクラブに入り浸っていたそうです。
当時の一流クラブは人種隔離主義で、出演者もお客も白人のみで、それを格式の高さとしていました。
アフリカ系のデューク・エリントンなどが出演していた、ニューヨークの「コットンクラブ」でも、お客として入店できるのは白人のみ。
ロサンジェルスにある、サルバトーレ・ダリが内装を手掛けた店「モカンボ」は、そんなジャズクラブの中でも、ひときわ一流の高級店として名をはせていました。
エラ・フィッツジェラルドのファンだったマリリン・モンローは、「モガンボ」のオーナーに、エラを出演させるように何度も提案しますが、もちろんアフリカ系のエラ・フィッツジェラルドが、出演できるはずありません。
そこでマリリン・モンローは
「もしエラ・フィッツジェラルドを出演させるなら、その間、私が毎日、真ん前の席を予約します」
とオーナーに約束。
毎日マリリン・モンローが来店すると予告すれば、お客さんもモンロー見たさに来店して繁盛するし、マスコミも押し寄せて店の宣伝にもなるため、エラ・フィッツジェラルドの「モガンボ」での2週間の公演が決定。
マリリン・モンローは初日にナットキング・コール(Nat King Cole)を同伴して現れ、映画の撮影では遅刻やすっぽかしの常習犯だったのに、エラの公演中は本当に毎日来店したそうです。
ちなみに「モガンボ」でのエラの公演は好評を博し、2週間の予定が3週間に延長。
「マリリン・モンローには大きな借りがあります」
とエラは後日インタビューで言ったそうです。
マリリン・モンローは映画「お熱いのがお好き?」の中で、このジャズのスタンダード曲を歌っています。
(↓Spotifyに登録すれば(無料でも可)フル再生できます)
でもエラ・フィッツジェラルドは「モガンボ」に出演した初のアフリカ系ではない?
マリリン・モンローがエラを「モガンボ」に出演させたいきさつは、「マリリン・アンド・エラ(Marilyn and Ella)」という舞台劇にもなって、ロンドンで上映されました。
これですっかりエラ・フィッツジェラルドが「モガンボ」で公演した、初のアフリカ系というイメージがついたようですが、実はそうではないようです。
エラが公演するよりも前、1952年から1953年にかけて、アフリカ系アメリカ人の歌手ハーブ・ジェフリーズ(Herb Jeffries ただしジェフリーズは白人疑惑もあり。継父が白人とアフリカ系のハーフで、売れるためにアフリカ系のふりをしただけで、実父は白人だったともいわれていて、外見はほとんど白人です) 、アーサー・キット( Eartha Kitt 彼女はアフリカ系と白人のハーフですが、肌の色は白いほう)、ジョイス・ブライアント(Joyce Bryant) が「モガンボ」で公演したようです。
マリリン・モンローを見習う?大物女優も出現
この「モガンボ」でのエラの公演の評判を聞いて、他の一流店もこぞってエラに出演を依頼するようになりました。
この後、ラスベガスの白人専用のカジノでもエラは公演。
そこに、女優のマレーネ・ディートリッヒがアフリカ系スターのリナ・ホーン(Lena Horne)とパール・ベイリー(Pearl Bailey)と腕を組んでやってきたそうです。
晩年は糖尿病に悩まされ、失明、足の切断などがあり表舞台からは遠ざかりました。
エラ・フィッツジェラルドの生涯(前編)はこちら。
エラ・フィッツジェラルドの数々の名曲のご紹介はこちら。
(前編)
(後編)
エラ・フィッツジェラルドのジャズ名盤アルバムについてはこちら。
(前編)
(後編)