ジミー・スコット(Jimmy Scott、1925年~2014年)は若いときに一度デビューし、レイ・チャールズにその実力を認められ、ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)やダイナ・ワシントン(Dinah Washington)などの大御所も魅了するほどのシンガーでしたが、さまざまな事情で1度音楽シーンから消え、エレベーターのオペレーターなどの仕事につきます。
そして20年間のブランクの後、1990年代に66歳という年齢でカムバックしてから大ブレイクしたシンガーです。
ジミー・スコットが歌うバラードは、思わず涙が出そうなくらい心を揺さぶります。
不遇を肥やしにして、大成したシンガーと言っていいのかもしれません。
ジミー・スコットは生まれつきホルモン系の病気を患っていて、そのために思春期になっても声変わりすることがなかったため、彼特有の声を持つことができたと言われています。
私はたしか、この曲でジミー・スコットを知ったと思います。もともと美しい曲ですが、ジミー・スコットが歌うと、さらに悲しいまでに美しい。
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ちなみにジミー・スコットが若いときに歌っている「スマイル(Smile)」がこちら。声変わりしていないので、一瞬「ダイナ・ワシントン(Dinah Washington)が歌ってる?」と思ってしまうくらい女性的な声なんですが、ちょっと少年っぽさも残っていて、彼特有の声です。
ジミー・スコットの生涯
ジミー・スコットの生い立ち
オハイオ州クリーブランド出身。
子供のころから、家にあるピアノで歌ったり、教会の聖歌隊で歌ったりしていました。
13歳のころ、母親が交通事故で死亡。
ジミー・スコットは孤児となります。
ビリー・ホリディ、レイ・チャールズ、ダイナ・ワシントンらの大御所に気に入られる
1940年代後半からジミー・スコットはライオネル・ハンプトン(Lionel Hampton)楽団の専属歌手になります。
当時はホルモンの病気のせいで身長が150センチ前後しかなかく(のちに開発された薬で身長は伸びたと何かで読んだ記憶があります)、声変わりもしていないジミー・スコットは、ライオネル・ハンプトンに「リトル・ジミー・スコット」というニックネームをもらいます。
同じ時期にライオネル・ハンプトンの楽団に所属していたクインシー・ジョーンズとは当時、楽屋も一緒だったのだとか。
ジミー・スコットの歌はビリー・ホリデイ(Billie Holiday) 、レイ・チャールズ 、 ダイナ・ワシントン(Dinah Washington) 、ナンシー・ウィルソン(Nancy Wilson)などの大御所たちも魅了しました。
こちらはライオネル・ハンプトン(Lionel Hampton)楽団時代のジミー・スコット。
この「エヴリバディーズ・サムバディーズ・フール (Everybody’s Somebody’s Fool )」は大ヒットしてR&Bチャートにもランクイン。
でも当時は「ライオネルハンプトンと歌手たち(Lionel Hampton and vocalists)」と表記され、ジミー・スコットの名前はクレジットされませんでした。
この数年後、ジミー・スコットはチャーリー・パーカー(Charlie Parker) と共演。
チャーリー・パーカーのアルバム「ワン・ナイト・バードランド(One Night in Birdland)」に収録された「エンブレス・ユー(Embraceable You)」のボーカルはジミー・スコットなのに、なぜかチャビー・ニューサム( Chubby Newsom)とクレジットされてしまいます。
レコード会社との生涯契約のため自由に歌えなくなる
1963年にジミー・スコットはレイ・チャールズと、レイ・チャールズのレーベル、タンジェリンでアルバム「フォーリング・イン・ラヴ・イズ・ワンダフル(Falling in Love is Wonderful) 」をレコーディング。
このアルバムがラジオで流れると、ジミー・スコットの歌は大反響を呼びますが、その前に「排他的な生涯契約」を結んでいたサヴォイ・レコードの妨害により、アルバムはリリースできませんでした。
「排他的な生涯契約」とは、生涯サヴォイ・レコードでしかレコーディングできないというもの。
(当時のサヴォイ・レコードは音楽産業のビジネスにうといミュージシャンたちを、彼らに不利な条件で契約を結んでいたと言われています)
1960年代後半から20年間音楽シーンから離れる
サヴォイ・レコードとの「排他的な生涯契約」によって、アルバムを自由にリリースできなくなっていたジミー・スコットの音楽活動は、ライブのみに限定されるようになります。
メディアが今ほど発達していない当時は、アルバムのリリースが世に自分を知らしめる重要な方法でしたから、ライブ活動のみのジミー・スコットはやがて世間から忘れられた存在となっていきます。
1960年後半ごろからは音楽シーンからも遠ざかり、故郷のクリーブランドに戻ったジミー・スコットは、、ホテルのフロント係、療養所の受付、エレベーターのオペレーターなど音楽に関係のない仕事をして過ごします。
そういった昼間の仕事はその後20年ほど続きました。
66歳にして表舞台にカムバックしたジミー・スコット
ジミー・スコットの長年の友人で、ジミー・スコットをカムバックさせようと尽力していたソングライター兼プロデューサーのドク・ポーマス(Doc Pomus)(ピアニストのモート・シューマン(Mort Shuman)と共作した「ラストダンスは私に(Save The Last Dance For Me)」は日本語の歌詞をつけられて越路吹雪さんがカヴァー。他にも多数のヒット曲あり)が肺がんで死去。
その葬儀でジミー・スコットは「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー(Someone To Watch Over Me)」を歌い、彼の歌声が健在であることを世間にしらしめました。
これがきっかけとなりジミー・スコットは表舞台にカムバックします。
このときジミー・スコットはなんと66歳!
カムバック後のジミー・スコットは、ジャズメンやジャズファンたちだけでなくスティングやマドンナなども魅了し、彼の歌を聴きに足を運んだそうです。
ジミー・スコットは80歳を過ぎても歌い続け、車いすに乗るようになっても舞台袖からマイクまでは、おぼつかない足取りながらも自分で歩いていったそうです。
こちらはジミー・スコットが亡くなる直前にレコーディングした「ニアネス・オブ・ユー(Nearness of You)」。
歌詞の合間に「somehow did you」と小粋に歌っちゃったり、これが亡くなる前のレコーディングとは信じられない驚異的な歌唱。
「君の(そば)!」「君との会話!」とか、言葉を強調するように高音にもっていくフェイクの感じが、ものすごくよいです。
ジミー・スコットの「ニアネス・オブ・ユー(Nearness of You)」には別バージョンもあって、こちらは軽くスイングさせて、ベースとサックスというコードレススタイル。
同じ曲を、まったく違う感じに歌えるのが本格派ジャズシンガーだと思います。
ジミー・スコットの名曲の数々はこちらでご紹介しています。