パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター (Pannonica de Koenigswarter 1913年~1988年)、愛称はニカ(Nica)
ニカはミュージシャンではありません。
一言で言ってしまうと、熱心なジャズファンで、貴族(男爵夫人)
そしてジャズメンたちの擁護者です。
彼女がいなかったら、バップ(ビバップ)時代のジャズメンたちは生き残れず、今のようなジャズの形もなかったかもしれません。
バップの時代、破滅的な生活を送り、生活に困窮するジャズメンが多かった中、献身的に母親のようにミュージシャンたちの世話を焼きました。
生活の面倒だけでなく、時にはマネジャーやプロデューサーのようなこともして、仕事の面でも世話を焼くこともありました。
チャーリー・パーカー(Charlie Parker)の最後を看取り、精神障害で演奏活動が難しくなったセロニアス・モンク(Thelonious Monk)を家族ごと自宅に引き取るなど、彼女の援助は金銭のみならず、深い愛情に支えられたものでした。
人種差別が厳しかった時代にジャズメン達と対等に付き合ったニカ
ニカがジャズメンと親しくしていたバップの時代は、まだ人種差別が厳しかった時代。
白人で、しかも貴族(男爵夫人)であるニカが、アフリカ系アメリカ人と連れ立って歩いたりするだけでも非難の目で見られました。
ホテル暮らしだったニカのスイートルームで、チャーリー・パーカー(Charlie Parker)が亡くなったときも、「白人の部屋で黒人が死んだ」とセンセーショナルなニュースとなり、かなりのスキャンダルとなりました。
それがきっかけで、ニカは宿泊していたホテルも出るはめに。
また、すでに夫婦仲が冷え切っていた夫とも、これがきっかけで離婚することになります。
かつてニューヨークタイムズの電話インタビューで、ソニー・ロリンズ(Sonny Rollins)が語っています。
「ジャズが、特にミュージシャンたちがあがいていた時、彼女は金銭的に援助してくれた。
でもそれ以上に、彼女はミュージシャンたちと一緒にいてくれたし、そのことで僕ら(アフリカ系)は自分も人間であると感じることができた。
それにはとてもなぐさめられた。
彼女のしてくれたことは計り知れない。」
当時は人種差別が公然とおこなわれていて、食事する場所も、宿泊施設も、バスの座席も、白人とアフリカ系は分けられていました。
アフリカ系のジャズメンは、白人だらけのホテルのボールルームで演奏し、仕事が終わると自分たちはそのホテルに泊まれないため、アフリカ系専用のホテルに移動して泊まっていました。
アフリカ系であれば年配でも、息子くらいの年下の若い白人からさえも「ボーイ(Boy)」と呼ばれていた時代。
アフリカ系を同じ人間として扱う白人は、ごくごく、まれな存在。
ニカは、そのまれな存在でした。
ソニー・ロリンズ(Sonny Rollins)は、ニカのことを英雄だとも言っています。
ニカの生涯
ニカの生い立ち
ニカことパノニカ・ドゥ・コーニグズウォーターは、名門ロスチャイルド家の一族としてイギリスに生まれました。
セロニアス・モンクは
「ニカの『パノニカ(Pannonica)』という名前は、蝶の収集家が趣味だったニカの父親が発見した蝶の名前だ」
と言っていたそうです。
でものちに蝶ではなく、珍しい種類の蛾、「Eublemma pannonica」だということわかりました。
ニカは父親が大量のジャズのレコードを所有しており、また兄もジャズに傾倒していたことから、彼女自身もジャズに親しんでいきます。
大人になったニカは飛行機に魅せらせ、訓練を受けたのち、女性パイロットとなります。
そして21歳の時、飛行場で出会った、ジュール・ドゥ・コーニグズウォーター 男爵(Baron Jules de Koenigswarter)と結婚します。
ニカと夫は、どちらもユダヤ系でした。
夫婦はともに自由フランス軍に参加し、アフリカやヨーロッパ各地でレジスタン活動に従事。
この間「ロンドンへ行くように」というアドバイスに従わなかった男爵の母親は、収容所送りとなり亡くなります。
また、ニカも結婚前には芸術系の学校に通うためにドイツに滞在していた時期があり、そのころにナチスのユダヤ人迫害を目のあたりにしていました。
彼女自身がそんな体験をしたので、アメリカでアフリカ系のジャズメンを差別する気にはらなかったのだろうと思います。
「ビバップ・バロネス」となったニカ
数々のジャズメンを庇護したことから「ビバップ・パロネス」や「ジャズ・バロネス」と言われるニカ。
終戦後、外交官となった夫とメキシコへ渡りますが、メキシコはニカには退屈で、しかも外交官の妻という堅苦しさもニカには重荷でした。
ニカは長女を連れてアメリカへ渡り、ニューヨークでホテル暮らしを始めます。
そしてセロニアス・モンク(Thelonious Monk) の演奏にほれ込み、たびたび彼が演奏している場に足をはこびました。
やがてニカはジャズクラブに頻繁に出入りするようになり、親しくなったジャズメンがニカのスイートルームを訪れ、セッションをしたりするようになります。
生活に困窮するミュージシャンにはお金を都合し、てんかんに苦しむコールマン・ホーキンズ(Coleman Hawkins)をたびたび家まで行って見舞ったり、薬物治療の結果うつ病になったパド・パウエル(Bud Powell)が行方不明になるとニューヨーク中を探し回ったり、と彼女の援助は金銭だけではありませんでした。
仕事にあぶれたミュージシャンには仕事を世話してやり、バンドの経営についてもアドバイスしたり、マネージャーやプロデュースのようなこともしました。
セロニアス・モンクの身代わりで刑務所へ
ある日、ニカはセロニアス・モンク(Thelonious Monk)たちと車に乗っていました。
途中、食事をとるために入った店の店主が、白人女性とアフリカ系アメリカ人が一緒に食事をとるのをいぶかしみ警察を呼びます。
そして警察が、ニカの車の中から大麻を発見。
ニカは自分が罪をかぶって、2~3日投獄されます。
セロニアス・モンク(Thelonious Monk)はニカのおかげで投獄は免れましたが、演奏するライセンスを2年間取り上げられ仕事ができなくなりました。
このころよりセロニアス・モンクの精神状態は悪くなります。
セロニアス・モンクを家族ごと9年間引き取る
そして、いよいようつ病がひどくなり、仕事もできなくなったセロニアス・モンク(Thelonious Monk)を、ニカは家族ごと自宅に引き取り、それからセロニアス・モンク(Thelonious Monk)が亡くなるまでの9年間、面倒を見ます。
セロニアス・モンク(Thelonious Monk)の妻は、ニカを「心からの友だった」と感謝するコメントを残しています。
ニカは自分の父親が、うつ病を患い自死していました。
そのことがあったので、セロニアス・モンク(Thelonious Monk)を父親と重ねて見ていたのかもしれません。
セロニアス・モンク(Thelonious Monk)が作った曲、ずばり名前、そのまんま「パノニカ(Pannonica)」
ニカが過ごしたキャッツハウス
ニカの後には、その家にバップの生き残りとも言われるバリー・ハリス(Barry Harris)が住みました。
(バリー・ハリスさんは今はもう亡くなっています。今の住人はわかりません)
↑※2021年6月にこのサイトを見てくださったかたから、バリー・ハリスさんはまだご存命でzoomでワークショップもされていて、ニカの家に今も住んでおられるとメールをいただきました。
お詫びして訂正いたします。
ニカは心臓手術の最中に亡くなりました。
74歳でした。
ニカが撮ったジャズメンたち(その数なんと300人ほど!)と、彼らの「3つの願い」で構成された本があります。
詳しいことは、こちらをご覧ください。
ニカがどれだけジャズメンたちに愛され、感謝されていたかは、ニカに捧げられた曲の多さでもわかります。
ニカに捧げられた曲のご紹介はこちら。