セロニアス・モンク(Thelonious Monk 1917年~1982年)の経歴の前編(幼少時~マイルス・デイヴィスとの喧嘩セッションまで)はこちらをごらんください。
こちらの後編は、ニカと出会ってから晩年までです。
セロニアス・モンクの生涯(後編)
セロニアス・モンクのパトロネス、ニカと出会う
1954年、セロニアス・モンクはパリを訪れコンサートやレコーディングを行いました。
このパリ滞在中に、セロニアス・モンクは貴族のロスチャイルド家の一員で、熱心なジャズファンでありジャズメンの擁護者でもあったパノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター (Pannonica de Koenigswarter) 通称ニカに紹介されます。
ニカはセロニアス・モンクの才能にほれ込み、これ以降、セロニアス・モンクが亡くなるまで庇護し続けました。
やっと大衆にも受け入れられる
セロニアス・モンクの才能は、仲間内や一部のコアなファンの間では、高く評価されていましたが大衆受けはしないため、レコードのセールスは伸びず興行的には成功していませんでした。
その打開策として「セロニアス・モンクは難解だ」というイメージを打ち破るべく、よく知られているスタンダード曲を集めたアルバム「ザ・ユニーク・セロニアス・モンク(The Unique Thelonious Monk )」をリリース。
目論見通りに、より広い層の人気を獲得しました。
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その前年には、セロニアス・モンクがデューク・エリントン(Duke Ellington )の曲を演奏するというアルバム「 セロニアス・モンク・プレイズ・デューク・エリントン(Thelonious Monk Plays Duke Ellington )」をリリース。
個性派のセロニアス・モンクが、大衆受けするデューク・エリントンの曲を演奏するという、一見以外な組み合わせが、驚きの相乗効果を生み出しました。
参加ミュージシャンと険悪になるも、名盤誕生
1957年、今日でも名盤と名高いアルバム「ブリリアント・コーナーズ(Brilliant Corners)」をリリース。
不協和音が多用され、7小節単位の展開、頻繁なテンポ・チェンジといった、モンクの前衛的なスタイルを世に知らしめました。
ただアルバムの表題曲「ブリリアント・コーナーズ(Brilliant Corners)」はあまりにも複雑な曲で、録音がうまくいかずなんと25テイクまで録音したそうです。
その間、アルトサックスのアーニー・ヘンリー(Ernie Henry)とセロニアス・モンクの間には険悪な空気が流れ、セロニアス・モンクはアーニー・ヘンリーが演奏しやすくなるように、アーニーのソロのときはピアノを弾きませんでした。
(1954年の世にいう「喧嘩セッション」ではマイルス・デイヴィス(Miles Davis)に、「オレのソロのときにはピアノを弾かないでくれ」と言われてたし。セロニアス・モンクのコードはそんなにソロがしにくいのか(TT))
また録音中にオスカー・ペティフォード(Oscar Pettiford)のベース音が聞こえなくなったため、エンジニアたちは機材の故障を疑いましたが、混乱してナーヴァスになったペティフォードがベースを弾くまねだけして音を出していなかった(いわゆるエアべース状態)ことが判明。
そのためベースのベティフォードに変わってポール・チェンバース(Paul Chambers)がベースを弾いて「ベムシャ・スイング(Bemsha Swing)」が録音されました。
表題曲は、1曲通して満足な演奏ができたテイクは録れなかったので、各テイクのうまくいった部分をつなぎ合わせて完成させました。
キャバレーカード復活するも、またもや災難
ニューヨークのアルコールを提供する店で演奏するためのライセンスを取り戻したセロニアス・モンクは、 1957年6月にニューヨークのファイヴ・スポット・カフェ(Five Spot Cafe)で、ジョン・コルトレーン(John Coltrane) 、ウィルバー・ウェア(Wilbur Ware)、シャドウ・ウィルソン(Shadow” Wilson)を迎えたカルテットで活動を再開。
ところが1958年、セロニアス・モンクがニカと一緒に車に乗っていたとき、人種差別が激しかった時代ゆえにアフリカ系男性と白人女性が一緒に車に乗っていたという理由だけで警察の検問を受け、おまけに車から大麻が見つかります。
このとき、アフリカ系よりも白人のほうが罪が軽くなるため、ニカがモンクをかばって警察に2~3日拘束されました。
このころから、もともと双極性障害(躁うつ病)を患っていたセロニアス・モンクの精神状態が悪くなっていったといわれています。
引退生活へ
1971年54歳のときに、ロンドンでレコーディングしたのを最後に、以降アルバムはリリースしませんでした。
1975年のニューポート、1976年のカーネギー・ホールでの演奏を最後に、セロニアス・モンクはジャズピアニストを引退。
晩年の6年間はニカの家で、妻ネリーとともに、ニカの庇護のもと生活。
そのころには部屋にあるピアノにも、ふれなくなったそうです。
以前から患っていた双極性障害(躁うつ病)はさらに悪化、晩年は口もきけなくなっていたそうです。
1982年64歳のときに、脳梗塞で亡くなりました。
息子のTSモンクはドラマー。
息子さんは音楽のジャンルが違うのね!と思っていたら、お父さんも演奏したこの曲も演奏してました。
ちなみにお父さんのセロニアス・モンクの「ルビー、マイ・ディア(Ruby, My Dear)」の演奏がこちら。
若き日のマイルス・デイヴィス(Miles Davis)に、コードなどの音楽理論を教えたセロニアス・モンク。
自分が作った曲「ラウンド・ミッド・ナイト(Round Midnight)」をマイルスが演奏したとき
「コードをわかっていない」
とだめだしするなど、後輩を愛を持って教育する厳しさもあり(でも鍛錬を重ねたマイルスが後日演奏したときには、ほめたそうです)、麻薬中毒のままマイルスのバンドに参加しジャンキーゆえに仕事を欠席&遅刻してマイルスに激怒されていたジョン・コルトレーンを、自分のバンドにひきとってやるというやさしさもありました。
セロニアス・モンクの生涯の前編(幼少時~マイルス・デイヴィスとの喧嘩セッションまで)はこちらをごらんください。
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