アート・ブレイキー(Art Blakey、1919年~1990年)の経歴、後編です。
アート・ブレイキーの経歴、前編(幼少時から、イスラム教に改宗して、セロニアス・モンクと共演するまで)はこちらに書きました。
こちらの後編では、アート・ブレイキーがジャズ・メッセンジャーズ(The Jazz Messengers)を結成してから晩年までと、アート・ブレイキーのドラムの特徴などについて書いています。
アート・ブレイキーの生涯(後編)
ジャズ・メッセンジャーズ結成
1947年12月、アート・ブレイキーはブルーノートレコードから、リーダーとしては初の録音で「アート・ブレイキーのメッセンジャーズ(Art Blakey’s Messengers)」と名付けたバンドを組みます。
このときのメンバーはトランペットのケニー・ドーハム(Kenny Dorham)、サックス&フルートのサヒブ・シハブ(Sahib Shihab、改名前はエドモンド・グレゴリー(Edmond Gregory))、サックスのムーサ・カリーム( Musa Kaleem)、ピアノはウォルター・ビショップ・ジュニア(Walter Bishop, Jr)
このころに、アート・ブレイキーは17人編成のメッセンジャーと名付けた大所帯のバンドを率いましたが、財政難で長続きしませんでした。
1954年から1955年にかけて、ホレス・シルヴァーと初代ジャズ・メッセンジャース(The Jazz Messengers)を結成します。
メンバーはトランペットのケニー・ドーハム(Kenny Dorham)、テナーサックスのハンク・モブリー(Hank Mobley,)、ピアノのホレス・シルヴァー(Horace Silver)、ベースのダグ・ワトキンス(Douglas Watkins)、そしてドラムがアート・ブレイキー。
初期は「ホレス・シルヴァー&ジャズ・メッセンジャーズ(Horace Silver&Jazz Messengers」の名称で、ホレス・シルヴァー(Horace Silver)がリーダーでした。
ジャズ・メッセンジャーズは人気を博しましたが、1956年にホレス・シルヴァー(Horace Silver)が脱退。
その後しばらく人気は低迷しますが、1958年にメンバーを一新。
テナーサックスのベニー・ゴルソン(Benny Golson)、トランペットのリー・モーガン(Lee Morgan)、ピアノのボビー・テイモンズ(Bobby Timmons)、ベースのジミー・メリット(Jymie Merritt)で編成されます。
この新生メンバーで、「モーニン(Moanin’)」や「ブルース・マーチ(Blues March)」をレコーディングします。
そしてこのモーニン(Moanin’)」が大ヒット。
ジャズ・メッセンジャーズの人気は、復活しました。
「ブルース・マーチ(Blues March)」
1959年にはテナーサックスがウェイン・ショーター(Wayne Shorter) に変わります。
このウェイン・ショーターがアレンジした、ドラム・ソロを中心とした「チュニジアの夜(A Night In Tunisia)」は、アート・ブレイキーの長いドラムソロが評判を呼び、今でも代表曲の1つとして愛されています。
「チュニジアの夜(A Night In Tunisia)」は、アート・ブレイキーの代名詞「ナイアガラロール」のドラミングが聴ける曲です。
親分肌のアート・ブレイキーは、無名の新人を起用して育てることにもたけていました。
ジャズ・メッセンジャーズからは数々のミュージシャンたちが巣立って、今も活躍しています。
アート・ブレイキーの晩年
アート・ブレイキーは1980年代の終わりまで、ジャズ・メッセンジャーズとともに演奏し続け、ツアーにも出ました。
1983年にはアート・ブレイキーの体調不良のため、2人目のドラマーとしてラルフ・ピーターソン(Ralph Peterson)が加入。
アート・ブレイキーはそのころにはほとんどの聴力を失っていたと言われていますが、補聴器をつけることを拒み、振動を感知して演奏していました。
ただジャズ・メッセンジャーズの最後のメンバージャヴォン・ジャクソン(Javon Jackson)によると、そんなにひどい難聴ではなく、片方の耳は聞こえていたとのこと。
アート・ブレイキーは1990年7月に最後の演奏をおこない、10月に肺がんで亡くなりました。
アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの名盤のご紹介はこちら。
アート・ブレイキーがサイドマンで参加したアルバムのご紹介はこちら。