ジャンゴ・ラインハルト(Reinhardt 1910年~1953年)はジプシー(ロマ)として生まれ、伝統的なジプシー音楽とジャズを融合させ、ジプシージャズという分野を確立した人。
やけどの後遺症で左手は3本しか使えなかったにも関わらず、残りの指で誰にも真似できない早弾くの技を聴かせました。
そんなジャンゴ・ラインハルトのバイオグラフィー(経歴)の後編です。
前編では生い立ちからステファン・グラッペリ(Stéphane Grappelli)と出会って、フランス・ホット・クラブ五重奏団(The Quintet of the Hot Club of France)を結成するまでを書きました。
ジャンゴ・ラインハルトの生涯(後編)
第二次世界大戦勃発で、ステファン・グラッペリと別れる
ジャンゴ・ラインハルトが39歳の時、第二次世界大戦が勃発。
その時ロンドンで公演中だったフランス・ホット・クラブ五重奏団(The Quintet of the Hot Club of France)は、残りの仕事をすべてキャンセルします。
ステファン・グラッペリ(Stéphane Grappelli)はそのままイギリスに残りますが、ジャンゴ・ラインハルトはフランスに帰ります。
そのためフランス・ホット・クラブ五重奏団は解散となりました。
フランス・ホット・クラブ五重奏団は、今聴いても小粋でおしゃれな感じ。
ジャズのスタンダードナンバーもフランス・ホット・クラブ五重奏団が演奏すれば、パリの香りが漂います。
(↓Spotifyに登録すれば(無料でも可)フル再生できます)
戦争中も、皆に愛されたジャンゴ・ラインハルト
戦争中、フランスがナチス・ドイツに占領されても、ジャンゴ・ラインハルトは演奏を止めることはありませんでした。
ナチス・ドイツ軍も、若いドイツ人がジャズを愛していることから、敵国アメリカのジャズを完全に排除することができず、条件付で演奏を許可していました。
ただしロマ(ジプシー)はナチスの迫害の対象だったため、当然ジャンゴ・ラインハルトのロマ仲間も次々と迫害されていました。
ジャンゴはそんな中、譜面が書けないにも関わらず、死んでいった仲間たちに向けて「レクイエム」という曲を作ります。
「レクイエム」はジャンゴ・ラインハルトが初めて作った交響曲でした。(ただオーケストラで演奏されることはなかったようです。)
そして同じくジャンゴが作曲した「ヌアージュ(Nuages)」はナチス占領下のフランスで大ヒット曲となり、フランスの人々に愛されました。
初のアメリカ・ツアーへ
戦争が終わった1946年、ジャンゴ・ラインハルトはデューク・エリントン(Duke Ellington)の招きで、初めてのアメリカ・ツアーに参加。
リハーサルの時、デューク・エリントンにキーを聞かれますが、ジャンゴ・ラインハルトは
「キーなんてない」
と答え、デューク・エリントンを困惑させます。
けれども曲が始まれば、ジャンゴ・ラインハルトは苦も無く曲についていけました。
デューク・エリントンのオーケストラとの共演でアメリカ滞在中も、ジャンゴ・ラインハルトの自由人ぶりは相変わらずだったようで、カーネギーホールという晴れの大舞台の場で、ジャンゴ・ラインハルトはなかなか姿を現わさず、終演ぎりぎりに到着したこともあったようです。
幼いころから放浪する生活が身に沁みついていて、スケジュールや時間に縛られて行動するのが苦手だったのかもしれません。
デューク・エリントンのオーケストラで、ジャンゴ・ラインハルトがギターを弾いているのが、こちら。
再びキャラバンに出たジャンゴ・ラインハルト
ツアーから帰国したジャンゴ・ラインハルトは、盟友ステファン・グラッペリ(Stéphane Grappelli)と今でも名盤として愛される「ジャンゴロジー(Djangology)」のアルバムを制作。
デューク・エリントン(Duke Ellington)とのアメリカツアーも成功し、「ジャンゴロジー(Djangology)」のアルバムも評判が良い中、ジャンゴ・ラインハルトはそういった名声におかまいなく、家を売り、昔のようにキャラバン生活を送るようになります。
アメリカのジャズメンからも共演を望まれるジャンゴ・ラインハルト
1953年、ブリュッセルで公演を行っていたディジー・ガレスビー(Dizzy Gillespie)のバンドに参加します。
ビング・クロスビー(Bing Crosby)もフランスを訪れた際に、ジャンゴ・ラインハルトとの共演を望んでいましたが、その事をジャンゴ・ラインハルトが知ったのは、ビング・クロスビーが帰国した後でした。
指の障害や頭痛に見舞われるようになったジャンゴ・ラインハルトですが、周囲にすすめられても、医者へ行くことは拒否していました。
1954年、友人の店でジャンゴ・ラインハルトは倒れ、亡くなります。
脳出血でした。
世界大戦中、ナチス占領下のパリでロマ(ジプシー)たちがナチスに迫害される中、ジャンゴは演奏活動を続けており、時にはナチスの前で演奏することもありました。
そんなジャンゴを描いた映画「永遠のジャンゴ」では、時代の流れに苦悩しながら演奏し続けるジャンゴを見ることができます。
またジャンゴを描いた映画ではありませんが、「ギター弾きの恋」という映画では、主人公エメット・レイが「自分はジャンゴ・ラインハルトに次ぐギタリストだ。」と信じているという設定でした。
ジャンゴの映画については、こちらに書きました。
そしてジャンゴの曲、演奏は、「マトリックス」「アビエイター」など、いろんな映画のサウンドトラックでも、よく使用されています。
ジャンゴが生まれてから1世紀ほどたった現在でも、彼の音楽はまったく色褪せません。
相変わらず、聴いていると気持ちが弾んできます。
ジャンゴ・ラインハルトの生涯(前編)はこちら。
ジャンゴ・ラインハルトの映画のご紹介はこちら。
ccジャンゴ・ラインハルトに捧げられた曲については、こちら。