ハービー・マン(Herbie Mann 1930年~2003年)は、それまでジャズではサブ的な存在であまり前面には出てこなかったフルートという楽器で、ジャズも演奏できると証明したジャズフルートの第一人者です。
ハービー・マンとほぼ同時期に活躍したエリック・ドルフィー(Eric Dolphy 1928年~1964年)のようにサックスをメインに吹いて、時々サブ的な感じでフルートを吹く人はいましたが、ハービー・マンはフルートをメインの楽器としてジャズを演奏しました。
フルートはサックスやトランペットなどに比べると圧倒的に音が小さく、またふわっとした音の特性からスイングのリズムやグルーブを打ち出しにくく、ジャズを演奏するには不向きな楽器だと思われていました。
ところがハービー・マンはそんなことはものともせず、フルート1本で数々のヒットまで放ち、ジャズフルートという分野を確立しました。
ハービー・マンの経歴やバイオグラフィー、その生涯についてご紹介します。
ハービー・マンの名盤はこちら。
ハービー・マンの生涯
ハービー・マンの生い立ち
ハービー・マンはニューヨーク出身。
本名はハーバート・ジェイ・ソロモン(Herbert Jay Solomon)
両親は、ともにダンサーと歌手でした。
ちなみに日本にもハービー・マンのファンは多く、ボーイ・ジョージをはじめロンドンのミュージシャンとも交流があり、福山雅治など数々のアーティストのジャケット写真も手掛ける、写真家でエッセイストのハービー山口氏(1950年~)も熱心なファンの一人で、名前もハービー・マンにちなんだものです。
ハービー・マン、15歳でプロ活動をスタート
ハービー・マンは高校に通っていた15歳のときに、プロ活動をスタートします。
1950年代には、サックスプレイヤーでときにクラリネットも吹くフィル・ウッズ(Phil Woods ビリー・ジョエル(Billy Joel)のヒット曲「素顔のままで(Just the Way You Are)」のアルトサックスでのソロでも有名)らと演奏しますが、このころはフルートの他にもバスクラリネットやテナーサックスも吹いていました。
20歳を過ぎたあたりから、フルートをメインに吹くようになります。
ワールドミュージックの先駆者
ハービー・マンはジャズにアフリカやブラジルなどをジャズに融合させ、ワールドミュージックのパイオニアとしても評価されています。
1959年にはアフロキューバンジャズのアルバム「フルーティスタ( Flutista)」をリリース。
1963年には、アントニオ・カルロス・ジョビン( Antonio Carlos Jobim)やギターのバーデン・パウエル(Baden Powell)らブラジルのミュージシャンと、「ドゥ・ザ・ボサノヴァ(Do the Bossa Nova with Herbie Mann)」をリリース。
この本格的なボサノヴァを追求したアルバム「ドゥ・ザ・ボサノヴァ(Do the Bossa Nova with Herbie Mann)」は、1962年にリリースされたスタン・ゲッツ (Stan Getz)のアルバム「ジャズサンバ(Jazz Samba)」とともに、欧米にボサノヴァを流行させることとなります。
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1962年「カミン・ホーム・ベイビー Comin’ Home Baby」でブレイク
1962年、「カミン・ホーム・ベイビー( Comin’ Home Baby)」が大ヒット。
ハービー・マンは一躍スターとなります。
ジャズが低迷した時代には、フュージョンやポップスなども手掛け、1960年代から1970年代にかけてポップヒットを連発し、ビルボードのダンス・チャートにランクインしたりもしました。
1969年には、レーベル「エンブリオ・レコード(Embryo Records)」を設立。
プロデューサーとしても活躍し、ジャズのみならずロックなど様々なアルバムを制作しました。
晩年は、前立腺がんを長く患い、2003年に亡くなりました。
私は、フルートはクラシック音楽でのみ使われる楽器だと思っていたので、ハービー・マンを聴いたときはびっくりしました。
あの可憐なイメージの、音量も小さいであろうフルートが、サックスやギターと互角にジャズを演奏していたのですから。
そしてフルートという楽器が奏でるジャズは、その音の特性ゆえか、まったく違った風景を見せてくれるように思います。
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