ユタ・ヒップ(Jutta Hipp 1925年~2003年)はドイツ出身(生まれはワイマール共和国)のピアニスト。
ドイツでは絵を学んでいましたが、第二次世界大戦後あたりからミュンヘンでジャズを演奏するようになりました。
そしてヨーロッパからアメリカへと進出。
ジャズの名門レーベルであるブルーノートからレコードも発売されるなど、その音楽活動は順風満帆かと思われましたが、ズート・シムズ(Zoot Sims)とのデュオアルバム制作後、彼女は音楽活動を自らストップさせます。
ユタ・ヒップの生涯
ユタ・ヒップの生い立ち
1925年 ドイツのライプツィヒ生まれ。
9歳のころからピアノを弾き始めます。
はじめはドイツで美術を学んでいましたが、やがてジャズに傾倒。
当時あhナチスがジャズをよしとしなかったので、一時は密にジャズを弾いていたようです。
第二次世界大戦後ソビエトが侵攻してきたため、家族とともに難民としてドイツに移ります。
第二次世界大戦終結後は、難民となり、食べるものにも事欠く生活も送りました。
そして1952年にドイツのミュンヘンで演奏活動を開始。
1953年~1955年にかけてはフランクフルトで、自己のクィンテッドを率いて、録音も残します。
こちらがドイツ時代のユタ・ヒップ。
1954年、イギリス出身でアメリカで活躍したジャズピアニストでプロデューサーや批評家としても名をはせたレナード・フェザー(Leonard Feather)に見いだされます。
レナード・フェザーはすぐに、ユタ・ヒップのためにヴィザとニューヨークのヒッコリーハウス( The Hickory House)の仕事を手配します。
そして1955年に、ユタ・ヒップはアメリカに移住。
その後の生涯を、晩年までアメリカで過ごします。
ユタ・ヒップはかなりのあがり症で、そのためにアルコールの力を借りることもあったようです。
またアルコール以外でも、かなりのチェーンスモーカーだったとか。
アメリカに移住したユタ・ヒップがこちら。
そして1956年にズート・シムズ(Zoot Sims)と共作のこのアルバムを録音した後、音楽活動を自らストップします。
4~5年しか演奏活動をしていない?ユタ・ヒップ
1955年にアメリカに出てきて1956年に引退。
ドイツでも1952年~1955年と、3年間くらいの活動期間のようです。
アメリカとドイツと合わせても、ジャズを演奏していたのはたったの4~5年間くらい?
年数は定かではありませんが、1925年生まれのユタ・ヒップは、引退した1956年には31歳くらいだったはず。
早すぎる引退です。
引退の理由は、極度のあがり症だった、小さなクラブで演奏したかった、売れるために好みでない音楽を演奏するのが性に合わなかったなど、いろいろ言われています。
「ユタ・ヒップにとっては、ジャズを演奏することは、戦後のもののない時代を生き抜く手段であって、本当にやりたいことではなかったのではないか」
「ユタ・ヒップを見出したレナード・フェザー(Leonard Feather)は、ユタ・ヒップ交際したがったが、ユタ・ヒップが拒絶した」
「ジャズでお金を稼ぐことが難しくなったので、安定した仕事につくことにした」
などとも言われていますが、憶測の域をでず、真実は不明のままです。
またアメリカに移住後に録音した「アット・ザ・ヒッコリー・ハスス(At the Hickory House)」が、ホレス・シルヴァー(Horace Silver) に影響されすぎているという批評を受けたのも影響しているという説もあります。
(私はそんなにホレス・シルヴァー(Horace Silver) と似ているとは思わなったのですが)
引退後は音楽界と関係を断ったユタ・ヒップ
引退後もしばらくの間は、ときおり演奏していたとも言われています。
でもその後音楽業界とは、きっぱりと関係を断ったようです。
そのためユタ・ヒップのレコードを出したブルーノートは、ユタ・ヒップの連絡先がわからず、2000年まで印税を支払えなかったそうです。
ユタ・ヒップは音楽をやめた後は、衣料品会社で働くようになり、そこで35年間務めました。
そしてまた絵を描くようになります。
ユタ・ヒップはうつ病にも苦しんだようです。
そしてニューヨークのクイーンズで78歳で亡くなりました。
ユタ・ヒップには、1948年のドイツ時代に、ライオネル・ハンプトンにちなんで「ライオネル」と名付けられた息子をもうけていましたが、息子の父親の詳細は不明のままです。
その息子はドイツにおいてきたようです。
個人的には、ユタ・ヒップのあがり症やうつ病は、息子をドイツにおいてきたということも原因のように思います。