チャールズ・ミンガス(Charles Mingus 1922年~1979年)の経歴の後編です。
前編では幼少期~地元でベースを手にするまでを書きました。
こちらの後編では、チャールズ・ミンガスはいよいよジャズの世界へ踏み出します。
チャールズ・ミンガスの生涯(後編)
チャールズ・ミンガス、ジャズの世界へ
チャールズ・ミンガスの最初の仕事はデューク・エリントンのオーケストラでクラリネットを吹いていた、バーニー・ビガート(Barney Bigard)とでした。
1943年ルイー・アームストロング(Louis Armstrong)とツアー。
1945年までに、チコ・ハミルトン( Chico Hamilton)も在籍しているラッセル・ジャケット(Russell Jacquet)が率いるバンドでレコーディングします。
1940年代後半にライオネルハンプトン(Lionel Hampton)のバンドで演奏し、 ハンプトンはミンガスの作品をいくつか録音しました
(↓Spotifyに登録すれば(無料でも可)フル再生できます)
気性の激しさからデューク・エリントン楽団を解雇される
1953年、チャールズ・ミンガスはデューク・エリントン(Duke Ellington)のオーケストラのベーシストとなります。
ここでチャールズ・ミンガスの気性の激しさと、ケンカっ早さで、事件を引き起こします。
バックステージで、デューク・エリントン楽団のメンバーだったファン・ティゾール(Juan Tizol)に立腹し、チャールズ・ミンガスが斧をもって追い掛け回すという事件です。
超個性的で曲者ぞろいのオーケストラ員を抱えていたデューク・エリントンも、さすがにチャールズ・ミンガスのケンカっ早さを持て余し、彼を解雇しました。
解雇はされましたが、チャールズ・ミンガスはデューク・エリントンを、その後も尊敬し続けたそうです。
そのチャールズ・ミンガスと、デューク・エリントン、マックス・ローチ(Max Roach)の3人で1963年に録音した「マネー・ジャングル(Money Jungle)」。いつもは楽団で指揮をしながらピアノを弾いているデューク・エリントンがトリオで演奏。彼のピアニストとしての演奏を楽しめるアルバムです。
この事件の詳細は、こちらに書きました。
マックス・ローチとレコード・レーベル設立
1952年、チャールズ・ミンガスと妻のセリア、マックス・ローチは、レコードレーベル、デビュー・レコード(Debut Records)を共同で立ち上げます。
商業主義の大手レーベルが取り上げないような、才能ある新人を世に送り出すのが目的でした。
デビュー・レコードから最初にリリースされたのは、チャーリー・パーカー(Charlie Parker)とディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)の最後の共演「ジャズ・アット・マッセイ・ホール(Jazz at Massey Hall)」のライブ盤でした。
チャーリー・パーカーと共演
1950年代のはじめごろ、まだチャールズ・ミンガスが商業的に成功する前に、チャーリー・パーカー(Charlie Parker)と共演します。
チャールズ・ミンガスはチャーリー・パーカーをジャズ史上最大の天才で革新者だと思っていましたが、チャーリー・パーカーの麻薬やアルコールに依存した破滅的な生活や、チャーリー・パーカーをまねて麻薬に手を出す若いジャズメンたちにはうんざりしていました。
チャールズ・ミンガスが作った曲「ガンスリンギング・バード(Gunslinging Bird)」は、チャーリー・パーカーに捧げられた曲ですが
「もしチャーリー・パーカーがガンマンだったら、チャーリー・パーカーをまねた、まがいもののガンマンたちの死体が並ぶ」
とチャーリー・パーカーをまねるサックス奏者たちを皮肉った曲。
かなりガンガン、攻撃的な感じがするジャズワルツ。
1961年チャールズ・ミンガスはニューヨークへと移り住みます。
チャールズ・ミンガスの晩年
1970年代半ばごろから、ミンガスは筋萎縮性側索硬化症 (ALS)を患います。
病気の進行で車いす生活となり、ベースを演奏できなくなりましたが、作曲は続け、プロデュース活動も続けました。
チャールズ・ミンガスは、56歳のとき、治療のために訪れていたメキシコの クエルナバカでで亡くなりました。
彼の灰はガンジス川にまかれました。
チャールズ・ミンガスのエピソードについても紹介しています。
チャールズ・ミンガスの名盤も紹介しています。
(前編)
(後編)
チャールズ・ミンガスがサイドマンで参加したアルバムはこちら。
(前編)
(後編)