モーガンを撃った本人が語る映画「私がリー・モーガンと呼んだ男」①

天才トランぺッター、リー・モーガン(Lee Morgan, 1938年~1972年)は33歳で、銃で撃たれて亡くなりました。

若くして名声を得てジャズシーンで活躍しながら、このころのジャズメンの多くがそうであったようにドラッグにおぼれて一時は演奏の場から姿を消します。

その後、麻薬中毒から立ち直って再びジャズシーンに戻ってきたときのことでした。

映画「私がリー・モーガンと呼んだ男(I Called Him MORGAN)」は、リー・モーガンを撃った本人である、内縁の妻ヘレン・モーガン(ヘレンは内縁の妻ですが、リー・モーガンが亡くなった後もモーガン姓を名乗りました)や、まわりの関係者たちのインタビューで構成されたドキュメンタリー映画で、2017年公開作品です。

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原題は「I Called Him MORGAN」で、邦題は「私が殺したリー・モーガン」とかなりショッキングな題名になっていましたがNETFLIXでは「私がリー・モーガンと呼んだ男」となっていました。

この「I Called Him MORGAN」については、映画の中のインタビューで

「なぜ『モーガン』と呼んでいたの?」

と聞かれたヘレンは

「それが彼の苗字だったから」

と答えています。

日本でも女子学生が親しい男子のことを

「山田」「高橋」

と苗字で呼ぶこともあるので、そんな感じ?と思っていたら、調べてみると一説にはリー・モーガンが人前ではヘレンに「リー」と呼ばせなかったという説もありました。

以下はかなりのネタバレを含むので、まだ映画を見ていないかたはご注意ください。

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映画はリー・モーガンが若くして絶頂期にいるあたりから、ヘレンと出会って亡くなるまでと、その後のヘレンにもさらっとふれる感じです。

ヘレンの生い立ちにもさらっとふれてます。

当時の演奏や写真もふんだんに登場して、ジャズファンならたまらない映画だと思います。

「私がリー・モーガンと呼んだ男/私が殺したリー・モーガン(I Called Him MORGAN)」

ヘレンへのインタビューは偶然

この映画のもととなった、ヘレンへのインタビューは偶然の出会いからおこなわれました。

ことの発端は2013年ノースカロライナ州ウィルミントンのウィルソン高校でおこなわれていた社会人クラス。

西洋文明(古代アフリカなど)を教えていたラリー・レニ・トーマスのクラスに、偶然ヘレンが参加していました。

そしてヘレンのかつての夫がリー・モーガンだと知ったラリーは、ヘレンにインタビューを申し込みます。

そのときにははっきりした返事をもらえませんでしたが、8年後の1996年にヘレンのほうから連絡があり、インタビューがおこなわれました。

1996年2月にインタビューがおこなわれ、続きは後日おこなわれるはずでしたが、ヘレンが翌3月に亡くなったため、インタビューは未完のままで終わりました。

ヘレンの人生も波乱万丈

映画でのヘレンのインタビューは

「この国が大嫌いだった」

という言葉からはじまります。

ヘレンの母親は、ヘレンが大人になったら農場で働かせるつもりでした。

ヘレンは13歳という若さで最初の子供を、14歳で2番目の子供を産みます。

父親については語られませんが、ヘレン自身はそのとき、子供が欲しいとは思っていなかったそうです。

子供はヘレンの祖父母が育て、ヘレンは家を出てウィルミントンへ向かい、そこで1週間前に出会ったばかりの男と結婚します。

そのときヘレンは17歳、相手の男は39歳。

でもその男は溺死します。

そのときの暮らしぶりは詳しいことは語られませんでしたが

「気ままな暮らしだった」

とのこと。

ニューヨークにその男の家族がいたので、ヘレンはニューヨークに出ます。

そしてそのままニューヨークで生活するようになります。

なおヘレンの祖父母に育てられたヘレンの長男は、21歳のときはじめて母親のヘレンに会い、同時に自分が13歳のときの子供だとそのとき知ったそうです。

ウェイン・ショーターが語る若き日のリー・モーガン

ジャズ・メッセンジャーズ(Jazz Messengers)でリー・モーガンと一緒だったテナーサックスのウェイン・ショーター(Wayne Shorter 1933年~)が、若き日のリー・モーガンについて語ります。

まだ18歳だったリー・モーガンがディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie) のバンドですでにスター扱いだったこと、その後ジャズ・メッセンジャーズにウェイン・ショーター(Wayne Shorter)が参加することになったいきさつなどが語られます。

ある日、大きなジャズフェスに参加していたウェイン・ショーターのもとに、リー・モーガンが駆け込んできて

ジャズ・メッセンジャーズ(Jazz Messengers)と一緒に演奏したい?」

と聞いてきたそうです。

「Yeah!」

と答えて2人でそのままアート・ブレイキー(Art Blakey)の楽屋へ行き、アート・ブレイキー(Art Blakey)に同じことを聞かれたウェイン・ショーターは

「Yes」

と答えたそうです。

ずいぶん昔のことを今でもうれしそうに語るウェイン・ショーターを見て、ジャズ・メッセンジャーズ(Jazz Messengers)に誘われてよほどうれしかったんだろうなあと、私もジャズファンとして一緒にうれしくなりました。

ウェイン・ショーター(Wayne Shorter)は、ジャズ・メッセンジャーズ(Jazz Messengers)で一緒に演奏するようになったリー・モーガンとは、仲のいい友達となります。

「私がリー・モーガンと呼んだ男(I Called Him MORGAN)」では、リー・モーガンのご機嫌な演奏風景が多々出てきますが、ウェイン・ショーター(Wayne Shorter)とジャズ・メッセンジャーズ(Jazz Messengers)で一緒に演奏しているシーンもあって、

「キャー!」

とミーハーに叫びそうになりました(笑)

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関係者が語るリー・モーガン

まだ若いにも関わらずベテランのような演奏で、皆を驚かせていたリー・モーガン。

おしゃれにも熱心で、ファッションや靴、高級車、そして美人をはべらかしていたのだとか。

さまざまな仲間のミュージシャンたちが、リー・モーガンとの若き日の思い出を語ります。

もちろんBGMはリー・モーガンのご機嫌なトランペットです。

ニューヨークに出てきたヘレンは

ニューヨークに出てきたヘレン。

「人生の大部分を53番街で生きてきた。

8番街と9番街の間で、バードランドからそう遠くないところ」

「車で走り回ったわ」

と話します。

仕事を見つけたヘレン。

ヘレンの口から仕事については語られませんが、ヘレンの長男によると電話サービスの仕事で、回線をつなぐためにコードをさしたり引いたりする仕事をしていたそうです。

ジャズが演奏されるクラブにもよく顔を出し、知られた存在だったようです。

仕事を終えた男達が出入りする、賭博場にも出入りしていた、とご近所だった人は語ります。

料理上手で世話好きで、おしゃべりだったヘレン。

いつも気軽に人を招いては、食事を出していたそうです。

そして当時は今よりもタブーとされていたゲイやレズビアンも

「同じ人間」

と分け隔てせず、友人として接していたのだとか。

リー・モーガン、ジャンキーになる

まわりの人たちが気が付いたときには、リー・モーガンはすでにどっぷりとヘロインにつかっている状態だったそうです。

そしてそれが原因で、ジャズ・メッセンジャーズ(Jazz Messengers)の代表曲とも言える「モーニン(Moanin’)の作曲者でピアノのボビー・ティモンズ(Bobby Timmons)と共に、ジャズ・メッセンジャーズ(Jazz Messengers)をクビになったと、メンバーたちが語ります。

その後のリー・モーガンは薬を買うために靴を質屋に入れて、クラブにスリッパのようなものを履いて現れたりします。

このころのリー・モーガンは

「トランペットよりもヤクがやりたい」

という状態だったのだとか。

ハイになって放熱器に倒れこみ、頭にひどいやけどを負ったこともあり、1965年以降はそのやけどの跡を髪でかくしていたのだそうです。

そしてジャズシーンから姿を消します。

あるときには、ホームレスのようなかっこうをしたリー・モーガンが地下鉄の駅で目撃されたりもしました。

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それからなぜヘレンが内縁の妻なのか。

実はリー・モーガンは結婚していたからみたいです。

詳しくはこちらにちょっとふれています。

アメリカのジャズメンに日本人の奥様が多いのはなぜ?
ひと昔前の話ですが、アメリカのジャズメンの奥様には日本人女性が多いです。アメリカ在住のジャズ通にその理由と思われるもの聞きました。自分でもあれこれと考えてみました。

②へ続きます。

モーガンを撃った本人が語る映画「私がリー・モーガンと呼んだ男」②
②ではヘレンとリー・モーガンの出会いから、事件の当事者と目撃者たちの証言、事件後のヘレンについてふれます。

私は「私がリー・モーガンと呼んだ男(私が殺したリー・モーガン)(I Called Him MORGAN)」を、ネットフリックス(NETFLIX)で見ました。

(2020年9月の情報です。配信状況は変わることがあるので、詳しくは公式ホームページでご確認ください)