セロニアス・モンク(Thelonious Monk 1917年~1982年)演奏を聴くと、ときに子供がふざけてピアノを弾いているようにも聞こえます。
でもじっくり聴いてみると、彼特有の音と音のあいだの間の取り方や、心地よい不協和音、ときに鍵盤をたたくように弾く音など、他に類を見ない独創的な演奏に、思わず耳を傾けてしまいます。
チャーリー・パーカー(Charlie Parker)らとビバップを誕生させた、立役者でもあります。
帽子とひげ、サングラスがトレードマーク。
演奏中に他の奏者がソロを取り出すとピアノの椅子から立ち上がり、踊ったり、あたりを歩き回ったり、ときにはそのまま店から出て行って20~30分ほど戻らず、他のメンバーがピアノレスで演奏することもあったようです。
ピアニストとしてだけでなく、作曲家としてもその才能を発揮。
この「ラウンド・ミッドナイト(Round Midnight)」のような、今日ではジャズのスタンダードとなっている曲を、数多く残しました。
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セロニアス・モンクの生涯(前編)
セロニアス・モンクの生い立ち
ノースカロライナ州ロッキーマウント出身。
生後間もなくセロニアス・モンクと家族はニューヨークへ移り住みました。
6歳ごろにピアノを弾き始め、レッスンを受けたこともあるようですが、基本的には独学で習得したようです。
有名な物理学者や数学者を輩出している、成績優秀者しか入学できないスタイベサント高校(Stuyvesant High School )に入学しましたが、音楽に専念するためか卒業はしていません。
セロニアス・モンクは17歳で、教会のオルガン奏者となります。
その後10代の後半あたりから、ジャズを演奏するようになりました。
ビバップを誕生させる場となったミントンズ・プレイハウスのハウスピアニストへ
1940年代後半あたりからは、のちにチャーリー・パーカー(Charlie Parker)らとビバップを誕生させる場となるマンハッタンのナイトクラブ、ミントンズ・プレイハウス(Minton’s Playhouse)のハウス・ピアニストとなります。
クラブのオーナーであるヘンリー・ミントンは経済的に苦しいジャズメンたちに理解があり、彼らの飲み食いやツケにも寛大だったので、ミントンズ・プレイハウスはジャズメンのたまり場となっていました。
また、そのころのジャズはオーケストラで譜面通りに演奏されることが多く、譜面通りの演奏に飽き足らない、若い情熱にあふれたジャズメンたちが自分たちの仕事を終えた後、ミントンズ・ハウスに集まってセッションするようになります。
そのセッションにはバド・パウエル(Bud Powell) 、 ケニー・クラーク(Kenny Clarke) 、 チャーリー・クリスチャン(Charlie Christian) 、 チャーリー・パーカー(Charlie Parker) 、 ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie) といったメンバーたちが集まり、自由に演奏し、新しいジャズを追求した結果、ビバップが生まれました。
当時のセロニアス・モンクの演奏スタイルは、アート・テイタム(Art Tatum)に近かったと言われています。
アート・テイタム(Art Tatum、1909年~1956年)はクラシックのピアニストや指揮者も魅了されて演奏を聴きにきていたという、超技巧派ジャズピアニスト。
1944年にセロニアス・モンクはコールマン・ホーキンズ(Coleman Hawkins)のバンドで初レコーディング。
ホーキンズはセロニアス・モンクの才能にほれ込み、世に出そうとした最初のジャズメンとなりました。
その恩返し?で、のちにセロニアス・モンクはジョン・コルトレーン(John Coltrane) やアート・ブレイキー(Art Blakey)と組んだバンドに、コールマン・ホーキンズも招いています。
麻薬所持の疑いでライセンスを取り上げられ、演奏活動が制限される
1951年、警察はセロニアス・モンクとパド・パウエル(Bud Powell)が乗っていた車から、麻薬を見つけます。
麻薬中毒者だったパド・パウエルが持ち込んだものと推測されますが、セロニアス・モンクは友人であるパド・パウエルが不利になるような証言を拒否。
そのため、ジャズを演奏するライセンスを取り上げられ、数年後にライセンスを取り戻すまで、ニューヨークのジャズクラブでは演奏できなくなり、作曲活動やレコーディング、劇場やニューヨーク以外での演奏など、音楽活動が制限されました。
1954年マイルス・デイヴィスとの喧嘩セッション
1954年、セロニアス・モンクはマイルス・デイヴィスのアルバム「バグス・グルーヴ(Bags ‘Groove)」と「マイルス・デイビス・アンド・モダン・ジャズ・ジャイアンツ(Modern Jazz Giants)」に参加。
世に言うところの「喧嘩セッション」「クリスマス・喧嘩セッション」と呼ばれる事件が起きた録音です。
これはマイルス・デイヴィスがセロニアス・モンクに
「オレがソロを吹くときには、ピアノを弾くな」
と言ったために、喧嘩になったというもの。
でも今では、はっきりとした真相はわかりませんが、事実でないとされています。
マイルスの自伝でも、セロニアス・モンクのコードが自分のソロに合わないと思って言ったことであって、セロニアス・モンクもそれは理解していた、とても友好的なセッションだったと書かれています。
その「バグス・グルーヴ(Bags ‘GrooveとMiles Davis)」の表題曲。
確かにマイルスのソロのときは、モンクはピアノを弾きません。
そして同じセッションで録音された「ザ・マン・アイ・ラヴ(The Man I Love)」のテイク2。
セロニアス・モンクがピアノのソロ演奏を、途中で突然弾くのをやめます。
あまりに長い休符が続いてモンクがソロ演奏を再開しないなか、本来ならばまだ他の奏者がソロを取る場所ではないのにマイルス・デイヴィスがソロを取り出します。
これが「セロニアス・モンクが機嫌をそこねて、ソロを弾くのを途中でやめた」という噂となりましたが、今日では音楽的に緊張を生み出す目的だったのではないか、とも言われています。
後編(ニカに出会ってから晩年まで)に続きます。
セロニアス・モンクって、義理堅いというか、友達思いというか、基本的にいい人なんだろうなと思います。
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