大の親日家で、ジャズ・メッセンジャーで何人もの新人たちを育ててジャズ界に羽ばたかせた親分肌のジャズメン、アート・ブレイキー(Art Blakey、1919年~1990年)
そんな彼の、さまざまなエピソードをご紹介します。
アート・ブレイキーの生涯についてはこちらに書きました。
前編(幼少時~イスラム教に改宗して、セロニアス・モンクと共演するまで)
後編(ジャズ・メッセンジャーズを結成~晩年までと、ドラムの特徴など)
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こちらは初期のホレス・シルヴァー(Horace Silver)が在籍していたときのザ・ジャズ・メッセンジャーズで、ホレス・シルヴァー(Horace Silver)がニカにささげた「ニカズ・ドリーム」
ホレス・スルヴァー(Horace Silver)のピアノで、トランペットはドナルド・バード(Donald Byrd)
ホレス・シルバー(Horace Silver)トリオのバージョンの「ニカズ・ドリーム」に比べると、テンポは遅め。
アート・ブレイキーのエピソード
ピアニストとしてプロ活動をスタート
アート・ブレイキーのミュージシャンとしてのスタートは、意外なことにピアニストとしてでした。
プロのジャズメンになるべくニューヨークに出てきた時は、ピアノを弾いてきました。
ところがニューヨークのジャズクラブでアート・ブレイキーがピアノを弾いていると、マフィアがらみの男が、別のピアニストを連れてきます。
そしてそのピアニストが演奏すると、アート・ブレイキーより格段上の腕前でした。
「お前はタイコでもたたいてろ。」と言われたアート・ブレイキーはドラムに転向。
このエピソードには違うバージョンもあって、クラブのオーナーが、ブレイキーが在籍していたバンドのメンバー全員にオーデションを受けさせたら、ブレイキーのピアノが下手だったというバージョンもあります。
そしてアート・ブレイキーを負かしたピアニストというのが、「ミスティ(Misy)」で有名なエロル・ガードナ―(Erroll Garner )だったという話もあります。
アート・ブレイキー自身が、インタビューで語った話とされているのは、クラブでアート・ブレイキーが休憩中に、ガムを噛んでいるような小さな子供がピアノを弾いていいか?と聞いてきてたので弾かせたら、アドリブも入れてすごい演奏だった、その子供がエロル・ガーナーだったというもの。
そのあと、店のオーナーに呼ばれ、あの子にピアノを弾かせるから、お前はこの店に残りたかったらドラムをたたけと言われたとのこと。
それから、ドラムに転向したのは、ニューヨーク時代でなく、故郷のピッツバーグにいたころだという説もあります。
ドラムに転向したアート・ブレイキーですが、最初のころは初心者ゆえに相当ひどい演奏だったようです。
仲間たちからも笑われていたそうですが、友人だったトランベッターのディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)のアドバイスもあり、やがて今のような素晴らしいプレイができるようになりました。
15歳のときには妻子持ち
アート・ブレイキーがインタビューで語っていたそうなのですが、15歳のときには結婚して子供もいたので、少年らしい時代がなかったそうです。
今からは見れば珍しい早婚ですが、マイルス・デイヴィスも自伝の中で、高校生の時点で未婚ながら子供をもうけていたようなので、この時代には珍しくなかったのかもしれません。
ピッツバーグ時代のエピソード
まだニューヨークに出てくる前、故郷のピッツバーグのクラブで演奏していたころのエピソードです。
当時のアート・ブレイキーはポケットにウイスキーのボトルを忍ばせて、演奏の合間にこっそり飲んでいたのだとか。
演奏が終わった後、大先輩のシドニー・キャトレット( Sidney Catlett またの名をシド・キャットレット (Sid Catlett)) にそのウイスキーボトルが見つかり、
「酒の飲み方を覚える前に楽器の演奏の仕方を勉強しろ」
と激しく怒られたのだとか。
アート・ブレイキー自身も、のちに後輩のサイドマンたちを厳しく指導していたようです。
またピッツバーク時代には、ケニー・クラーク(Kenny Clarke)からも、ときおりアドバイスをもらったりしていたようです。
駆け出しのころのハードな生活
ピッツバーグ時代には、クラブで夜明けまで演奏し、朝になるとブレックファースト・ショーで働いた後、午後2時ごろまでジャム・セッション、3時ごろから寝て、また午後の8:30にはクラブに行って演奏という、ハードなスケジュールだったようです。
また15歳で妻と子供がいたアート・ブレイキーは、昼間は製鉄所で働き、夜は店で演奏するという生活を送っていたこともあったようです。
日本が大好きだったアート・ブレイキー
アート・ブレイキーは親日家としても有名です。
日本にひんぱんに来日し、夏のジャズフェスには必ずといっていいほど出演していた時期もありました。
アート・ブレイキーが親日家になったのは、来日した時の日本のファンの歓迎に感激したからだと言われています。
当時のアメリカは、まだアフリカ系アメリカ人に対して、深刻な人種差別が存在していました。
それは偉大なジャズメンであっても関係なく、肌が黒ければ差別の対象に。
アート・ブレイキーが初めて日本に来たとき、空港に押し寄せた日本のファンの熱狂ぶりを見て、まさか自分が歓迎されているとは思わず、誰か他にVIPが下りてくるのだと思ったそうです。
一緒に写真を撮ってくれ、と日本のファンにせがまれた時には
「俺は黒人だがいいのか?」
と聞いています。
本国アメリカでは、考えられないことだったのでしょう。
アート・ブレイキーは
「アフリカをのぞいて、日本だけが俺たちを人間として扱ってくれた。」
と感激。
アート・ブレイキーは何度か結婚しましたが、日本人と結婚していた時もあります。
またザ・ジャズ・メッセンジャーズには、ベーシストの鈴木良雄さん、鈴木勲さんなど今でも一線で活躍されている日本人ジャズメンも参加していたことがあります。
日本では大スター、本国では庶民的?
日本では、数々の若手ジャズメンを発掘し、育て上げ、大御所のイメージがあるアート・ブレイキーですが、本国アメリカでは自分で運転する車で演奏旅行に行っていたそうです。
それはアート・ブレイキーにかかわらず、日本では大御所として尊敬されているレジェンドたちも、アメリカではちょっと状況が違うようです。
誰から聞いた話かは忘れましたが、少し昔の話です。
レジェンドの一人とされているジャズメンがあるお金持ち宅のパーティーに呼ばれて演奏しましたが、演奏を終えるとその家のキッチンで出されたサンドイッチを食べたそうです。
日本では大スターのジャズメンなのに、本国ではパーティーに演奏で呼ばれても、演奏が終わればパーティー会場から出されてキッチンで食事させられるんだ、と驚きました。
ポップスや、ロックミュージシャンなら、キッチンで食事させらないかもとも思います。
日本では、ジャズメンは紳士というイメージがありますが(その昔、ロン・カーターが紳士服スーツのCMに出てたり、マイルスがウィスキーのCMに出てました)、本国アメリカでは一部かもしれませんが、ジャズメン=ジャンキー=胡散臭い奴らというイメージがあるそうです。
アートブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーは、サックスやトランペットなどの管楽器が2~3本と、ピアノ、ドラム、ベースの編成です。
力強く、明るく明瞭なドラミングと、管楽器の華やかさが楽しめるジャズです。
演奏される曲目も聴きやすいものが多く、ソロも比較的明快。
アート・ブレイキーはジャズ初心者にも聴きやすいジャズだと思います。
元気になりたい時や、華やかな感じのものが聴きたい時におすすめです。
アート・ブレイキーの生涯については、こちらに書きました。
前編(幼少期~イスラム教に改宗して、セロニアス・モンクと共演するまで)
後編(ジャズ・メッセンジャーズ結成~晩年までと、ドラムの特徴について)
アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの有名曲&おすすめ曲はこちら。
アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの名盤&おすすめアルバム
(前編)
(後編)
アート・ブレイキーがサイドマンとして参加したアルバム
ジャズ・メッセンジャーズ(Jazz Messengers)出身のミュージシャン