ピアノトリオの生みの親 バド・パウエルの生涯(後編)

ジャズピアニスト、バド・パウエル(Bud Powell 1924年~1966年)の生涯の後編です。

前編では、バド・パウエルの生い立ちや、ジャズの仕事をし始めてからビバップのジャズメンたちと知り合い、ビバップピアニストとして名をはせるまでを書きました。

とくに師匠であるセロニアス・モンクとの師弟愛は深くて、お互いに曲を捧げあうほどでした。

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前編はこちら。

ピアノトリオの生みの親 バド・パウエルの生涯(前編)
パド・パウエル(Bud Powell 1924年~1966年)はビバップのピアニストというだけでなく、それまでに奏法を編み出し現代のピアニストにも影響を与え続けている人。そんな彼のバイオグラフィー(経歴)の前編です。

バド・パウエルの生涯(後編)

バド・パウエル電気ショック療法を受ける

1947年ごろ、ハーレムのバーで、バド・パウエルは店の客と口論になり、ボトルで目のあたりを殴られます。

そのけがの治療にあたった病院のスタッフが、パウエルの言動に一貫性がなく、乱暴であることに気づき、以前の入院記録から精神病院へ送り込みます。

1948年、パウエルがガール・フレンドの妊娠を聞いた後、それが原因かどうかは不明ですが発作を起こしたため、電気ショック療法を施術されました。

(電気ショック療法を受けたのは1951年という説もあります)

その後症状が落ち着いたため、パウエルは退院します。

バド・パウエルは以前に警察に殴られた後ずっと頭痛が続いていて、その後遺症か、またはこの電気ショック療法の後遺症で、のちに指があまり動かなくなったというのが定説です。

そしてパウエルはしつこい頭痛にも悩まされていました。

バド・パウエルとチャーリー・パーカーとの関係悪化

電気ショック療法を受けた病院を退院したのち、バド・パウエルの精神状態も、健康状態も悪化していきます。

1950年代にはマリファナの所持で逮捕、1951年~1953年にかけては精神病院に入院しましたが、バードランド(Bird Land)のオーナーであるオスカー グッドスタイン(Oscar Goodstein)が後見人となり退院できました。

1953年、チャーリー・パーカー(Charlie Parker)ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)の最後の共演となった、マッセイホールでの公演にも参加するものの、退院直後でお酒を精神的な支えとしていたバド・パウエルは休憩時間になると会場近くのバーに行ってしまい、関係者が見つけて連れ戻すまでそこで飲み続けていました。

このころからチャーリー・パーカー(Charlie Parker)とバド・パウエルの関係が悪化。

麻薬をなんとか断ったものの今度はお酒におぼれるようになったチャーリー・パーカー(Charlie Parker)と、すでにお酒におぼれていたバド・パウエル。

はたから見れば、どっちもどっちな2人に思えますが、不和というよりもは、チャーリー・パーカー(Charlie Parker)が一方的にバド・パウエルの言動や演奏を許せなかったような感じです。

チャーリー・パーカー(Charlie Parker)がバードランドのステージ上で、バド・パウエルに嫌がらせをした件は、チャールズ・ミンガスのエピソードに書いてます。

事件多発!チャールズ・ミンガスの暴れん坊エピソード(前編)
気性が激しかったと言われるジャズベーシストのチャールズ・ミンガス(Charles Mingus 1922年~1979年)。その気性ゆえか、彼が起こした事件やエピソードの数々をご紹介します。
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弟リッチー・パウエルが亡くなる

バド・パウエルと同様ビバップのピアニストとして活躍していた弟のリッチー・パウエル( Richiie Powell)が、1956年、リッチー・パウエルの妻と、名トランぺッターのクリフォード・ブラウン(Clifford Brown)と一緒に自動車事故で亡くなりました。

弟のリッチー・パウエル( Richiie Powell)は交通事故で亡くなる3か月前に、ソニー・ロリンズの名盤と名高い1956年の「ソニー・ロリンズ・プラス・フォー(Sonny Rollins Plus 4)」にも参加。

収録曲の「ヴァルス・ホット(Valse Hot)」は、ジャズワルツの古典とも言われています。

(↓Spotifyに登録すれば(無料でも可)フル再生できます)

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バド・パウエル、パリに住む

1959年、健康が少し回復したバド・パウエルはパリに住むようになります。

1963年ごろ、パウエルは結核と診断され病院に入院しますが、退院後はフランス人のファンがパドを引き取り、面倒を見ました。

このバド・パウエルとフランス人ファンとの友情は、のちにテナーサックス奏者に置き換えられて「ラウンド・ミッドナイト(Round Midnight)」という映画になりました。

「ラウンド・ミッドナイト(Round Midnight)」については、こちらに書いています。

オフステージのジャズメンを描いた映画「ラウンド・ミッドナイト」
映画「ラウンド・ミッドナイト(Round Midnight)」はヨーロッパ滞在中のジャズピアニストのバド・パウエルがモデル。実際にジャズメンでテナー・サックス奏者として名をはせるデクスター・ゴードンが地のまま?といった感じで主演しました。

人種差別がないヨーロッパで、好意的な人たちに囲まれたバド・パウエルはパリで麻薬を断つことができました。

パウエルは1964年までパリで暮らしました。

パド・パウエルの晩年

1964年バド・パウエルはニューヨークに戻りましたが、ジャズクラブでの数回のライブを行いましたが、精神的にも安定せず、アルコール依存も深刻になり、公の場から姿を消します。

1966年、アルコール依存症、栄養失調、結核などが原因で亡くなりました。

ハーレムで行われた葬儀には5000人以上が参列したそうです。

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バド・パウエルの生涯(前編)はこちら。

ピアノトリオの生みの親 バド・パウエルの生涯(前編)
パド・パウエル(Bud Powell 1924年~1966年)はビバップのピアニストというだけでなく、それまでに奏法を編み出し現代のピアニストにも影響を与え続けている人。そんな彼のバイオグラフィー(経歴)の前編です。

バド・パウエルのエピソードはこちら。

マイルスやモンクと仲良し!お騒がせなバド・パウエルのエピソード
バド・パウエル(Bud Powell 1924年~1966年)はビバップの最高峰ともいわれるジャズピアニストですが、深酒や麻薬の悪癖もあり、また深刻な精神疾患を患っていたとも言われ、エピソードには事欠かない人。そんな彼の数々のエピソードをご紹介します。

バド・パウエルの名曲と、他のジャズメンから捧げられた曲

バド・パウエルの名曲&他のジャズメンからバドに捧げられた曲
バド・パウエル(Bud Powell 1924年~1966年)の名曲、有名曲、名演のご紹介です。自作曲のほかに、他のジャズメンからバド・パウエルに捧げられた曲なども取り上げています。

バド・パウエルのジャズ名盤アルバム

ビバップピアニストだけど、それだけじゃないバド・パウエルの名盤
バド・パウエル(Bud Powell 1924年~1966年)の名盤のご紹介です。好不調が激しかった、後期は電気ショック療法の後遺症で昔のように演奏できなかったなどと言われていますが、有名なアルバムを中心にご紹介していいます。

バド・パウエルがサイドマンとして参加したアルバム

ジャズピアニストのバド・パウエルがサイドマンで参加したアルバム
バド・パウエル(Bud Powell 1924年~1966年)がサイドマンで参加したアルバムのご紹介です。好調不調の差が激しかったと言われるバド・パウエルですが、数々の名盤に参加して最高の演奏を残しています。