ジャズにボサノヴァを取り入れ流行らせた人と言われている、テナーサックスのスタン・ゲッツ(Stan Getz 1927年~1991年)の生涯の後編です。
前編では、生い立ちや麻薬がらみの逮捕の後、ヨーロッパに移住するまでを書きました。
後編は帰国してから晩年までです。
スタン・ゲッツの生涯(後編)
アメリカに帰国 ジャズにボサノヴァを取り入れる
1957年に映画「黒いオルフェ( Black Orpheus)」が公開されると、そのサウンドトラックを担当したブラジルの作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンらの音楽から生まれた「ボサノヴァ(Bossa Nova)」という新しい音楽が注目されるようになりました。
1961年にアメリカに帰国したスタン・ゲッツは、このボサノヴァに興味を持ちます。
そして南米のツアーから帰国したばかりのチャーリー・バード(Charlie Byrd)と「ジャズ・サンバ(Jazz Samba )」のアルバムを制作し、これが大ヒット。
収録曲デサフィナード(Desafinado) は、1963年のベストジャズパフォーマンスでグラミー賞を受賞。
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1964年にはスタン・ゲッツは、ジョアン・ジルベルト(João Gilberto)、アントニオ・カルロス・ジョビン( AntônioCarlos Jobim)と「ゲッツ/ジルベルト(Getz/Gilberto)」のアルバムをリリース。
こちらも大ヒットしたうえに、グラミー賞を4部門で受賞します。
レコーディング中、スタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトの間は険悪だったそうですが、それにも関わらずアルバムの出来は上々。
ジョアン・ジルベルトの妻 で、当時22歳だったアストラッド ・ジルベルトが、それまで歌ったこともなかったにも関わらずこのアルバムに2曲、ボーカルとして参加。
アストラッド ・ジルベルトの歌は大ヒットし、人気歌手の仲間入りします。
一説によると、このレコーディング中に、スタン・ゲッツとアストラッド・ジルベルトは恋仲になったとも言われています。
アストラッド ・ジルベルトと、ジョアン・ジルベルトはこの後離婚。
アストラッド ・ジルベルトとスタン・ゲッツは恋愛関係にあったがけど、スタン・ゲッツの離婚が成立しなかったので、籍は入れなかったという説もあります。
フュージョンやポップスにも俊出
1970年代のフュージョンブームに、スタン・ゲッツも乗ります。
そりゃ、ジャズにボサノヴァを取り入れた人ですから、世がフュージョンブームならトライするでしょう!
そしてフュージョンにトライしたかと思えば、ロックも吹いてみたりします。
アメリカンロックの「ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース(Huey Lewis & The News)のアルバム「スモール・ワールド(Small World)」に、スタン・ゲッツも参加。
スタン・ゲッツの晩年
麻薬を断つことはできたスタン・ゲッツでしたが、アルコールを断つことはできず、アルコール依存症をかかえたまま、それでも演奏活動は精力的にこなしました。
1987年、スタン・ゲッツは癌と診断され、余命1年半と宣告されます。
スタン・ゲッツはこれ以降、食事を自然食に変え、漢方薬も試しながら、演奏活動はこれまでどおり続けました。
余命宣告から4年たった1991年、スタン・ゲッツはお気に入りのピアニスト、ケニー・バロン(Kenny Barron)とデュオのコンサートを、コペンハーゲンのモンマルトルで4日間おこないます。
このときのスタンゲッツの演奏は好調で、すべてのソロが力みなぎるものでしたが、1つのソロを終えるたびに息を切らし、体調がよくないことは一目瞭然だったそうです。
そのときのコンサートを収録したアルバムが「ピープル・タイム(People Time)」
このアルバムを聴くかぎり、そんなに体調が悪かったなんて信じられない、素晴らしい演奏です。
このコンサートの後はパリでコンサートをする予定でしたが、体調不要でキャンセルし帰国。
闘病生活のすえ、1991年6月、スタン・ゲッツは肝臓がんで亡くなりました。
モンマルトルのコンサートから、わずか3か月後のことでした。
しかもスタン・ゲッツは、少し休んで夏にはまたツアーに出ようとしていたのだとか。
スタン・ゲッツもソニー・ロリンズ(Sonny Rollins)のように、ドラッグを断って健康的な生活をしていたら。。。。と思ってしまいます。
スタン・ゲッツのエピソードについてはこちらに書きました。
スタン・ゲッツの名盤&おすすめアルバムはこちら。
(前編)
(後編)
(番外編)
スタン・ゲッツがサイドマンとして参加した、他人名義のアルバムはこちら。
(前編)
(後編)
(番外編)