ポール・チェンバース(Paul Chambers 1935年~1969年)は、短い活動期間に数多くの録音を残したベーシスト。
マイルス・ディヴィス(Miles Davis)、ソニー・ロリンズ(Sonny Rollins)、ジョン・コルトレーン(John Coltrane)、パド・パウエル(Bud Powell)、キャノンボール・アダレイ(Cannonball Adderley)、ジャッキー・マクリーン(Jackie Mclean)。。。。。
彼が共演しレコーディングしたレジェンドを挙げると、きりがありません。
これだけひっぱりだこだった彼も、当時のミュージシャンたちの間で蔓延していた麻薬中毒という悪癖のため、結核にかかり33歳という若さで亡くなります。
活動期間は14年間ほど。
その14年間に400枚ほどのアルバムのレコーディングに参加したと言われています。
ポール・チェンバースの経歴
ポール・チェンバースの生い立ち
1935年ペンシルベニア州ピッツバーグに生まれ、母親が亡くなった後はミシガン州デトロイトで育ちました。
ポール・チェンバースが最初に手にした楽器はバリトンホルンで、のちにチューバに変えますが、パレードで長時間行進しながら吹くには楽器が重く、彼はこれらの管楽器が好きではなかったとのちに語っています。
ポール・チェンバース、ベースを手にする
1949年ごろ、ポール・チェンバースはベースを手にします。
1952年にはベースのレッスンを受け始め、クラシック音楽も演奏しました。
1952年ごろから、ポール・チェンバースは高校に通いながら、学生のバンドなどで演奏活動を始め、ときにバリトンサックスを吹くこともありました。
ポール・チェンバース、ジャズに魅了される
ポール・チェンバースは15歳のころに、チャーリー・パーカー(Charlie Parker)やバド・パウエル(Bud Powell) などを聴き、影響を受けます。
当時、ポール・チェンバースが最初に憧れたベーシストは、オスカー・ペティフォード(Oscar Pettiford)とレイ・ブラウン(Ray Brown)
のちに パーシー・ヒース(Percy Heath) 、 ミルト・ヒントン(Milton Hinton) 、 ウェンデル・マーシャル(Wendell Marshall)に注目し、 チャールズ・ミンガス(Charles Mingus)とジョージ・デュビエ(George Duvivier)には技術面で注目します。
一番お気に入りのベーシストは、デューク・エリントンのバンドでそれまでのベースの役割を革新的に変えた、ジミー・ブラントン(Jimmy Blanton)でした。
ポール・チェンバースのアルコ(弓弾き)のスタイルは、このジミー・ブラントン(Jimmy Blanton)のプレイを発展させたものといわれています。
ポール・チェンバース、表舞台へ
ポール・クイニシェット(Paul Quinichette)のツアーに参加した後の1954年、ポール・チェンバースはニューヨークへ進出。
ベニー・グリーン (Bennie Green ピアニストのベニー・グリーン(Benny Green)とは別人) や、ジョージ・ウォーリントン( George Wallington) 、 J.J.ジョンソン ( JJ Johnson) 、 カイ・ウィンディング( Kai Winding)などのバンドのツアーにも参加します。
1955年、ポール・チェンバースは20歳で、マイルス・デイヴィス( Miles Davis)のクインテットに加わります。
そして「カインド・オブ・ブルー(Kind of Blue)」をはじめ、今ではジャズの古典ともいうべき名盤の数々で演奏しました。
その中でも特に「ソー・ホワット( So What)」でのポール・チェンバースの演奏は、現在でも有名。
1963年までの8年間、ポール・チェンバースはマイルス・デイヴィス( Miles Davis)のバンドに所属しました。
華々しい活躍の影で麻薬とアルコールの悪習
ポール・チェンバースはベーシストとして、早くから認められ、華々しくジャズの表舞台で活躍しましたが、その陰で、アルコールとヘロインに依存した生活を送っていました。
1969年、33歳で結核で亡くなりました。
アルコールとヘロインの影響で、健康状態が悪かったのも原因と言われています
ポール・チェンバースのリーダー作での名盤については、こちらに書きました。
他のジャズメンからポール・チェンバースへ捧げられた曲はこちらに集めました。